2007年09月28日発行1003号

前田 朗の「非国民がやって来た!」(20) 金子文子・朴烈(5)

 ブルジョアの庭につつじの咲いて居り

  プロレタリアの血の色をして

 口吟む調べなつかし革命歌

  彼の日の希い淡く漂ふ


 1922年11月、「朝鮮労働同盟会」を創立し、夫婦で『太い鮮人』という雑誌を発行します。これは後々有名になった雑誌です。まず朝鮮の「朝」の字を抜いて「鮮人」という言葉を使っています。これは差別的に用いられた表現で、朝鮮人を貶めるための言葉です。その上に「不逞」という言葉を付けます。「不逞鮮人」は当時良く使われていた差別表現です。「だったら俺たちは太い鮮人だ」というのが烈と文子が考えた雑誌のタイトル『太い鮮人』です。

 1923年、ソウルでは義烈団の金相玉や仲間が逮捕されます。このために烈が頼んでいた爆弾事件は消えてなくなります。烈の思いつきは、思いつきのまま終わってしまったのです。

 『太い鮮人』が出版禁止になったので『現社会』という雑誌を発行します。さらに1923年に「不逞社」をつくります。その頃にまた、金重漢と爆弾入手の相談をして、5月20日に上海に行って爆弾を手に入れてくれと頼んだのですが、6月20日にこれを取り消しています。理由は、金重漢が口が軽くて、ひょいひょい喋ってしまう。これではとても駄目だという訳です。この間、不逞社に集まって色々勉強会等をやってるわけですが、9月1日に関東大震災が起き、9月3日に烈と文子は「保護検束」されます。

 10月20日、検事局が不逞社員16名を治安警察法違反容疑で起訴します。同日、大阪朝日新聞号外に「震災の混乱に乗じ、帝都で大官の暗殺を企てた不逞鮮人の秘密結社大検挙」と報道されます。10月20日は、6000人の朝鮮人を殺した大虐殺事件が報道された日です。同じ日に、朝鮮人の朴烈が皇太子暗殺計画を持っていたと発表するわけです。

 日本人が朝鮮人6000人を虐殺してしまった。日本政府としては、国際社会に顔向けできません。まずいので秘密にしていました。公表させない。とはいえ、いつまでも秘密にはできないので、10月20日に発表した訳です。しかし、それだと日本人が一方的に朝鮮人を虐殺したことになる。それではまずいので、朝鮮人が皇太子を暗殺しようとしていたというニュースを発表します。同じ日の新聞に、この2つが載ります。朝鮮人大虐殺を、そんなのは大したことではないとして、朴烈をでっちあげる。

 ところが妻は日本人の金子文子だったのです。

 「ブルジョア――」「口吟む――」の歌は、社会主義ないし無政府主義の革命の考え方が出発点で、すべての人間の平等というのが、文子の考え方です。だから烈とともに生きます。

 烈が皇太子の暗殺計画を持っていた、やっぱり朝鮮人だ、とんでもないという大宣伝をしようとする。ところが文子は日本人ですから、困ります。日本政府検事局は困る訳です。何としてでも文子を事件から切り離そうとします。

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