2016年11月25日発行 1454号

【非国民がやってきた!(245)ジョン・レノン(8)】

 「さあ、立ち上がって路上に出よう」。

 ジョンとヨーコは活動するミュージシャンとして激動のアメリカに身を投じました。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジを自転車で走って、ジョンの新しいイメージを打ち出そうとしました。

 単なるポップ・アイドルではなく、人生に悩みながら前向きに歩く一人のアーティストとして、戦争と差別に反対する普通の市民として、自らの理性と情熱を総動員して時代に向き合うことがジョンの人生となります。

 もちろん、ジョンはすでに孤高のミュージシャンではなく、ヨーコとのユニットを固めていました。ジョンとヨーコはニューヨークの路上を駆け抜け、摩天楼の間を飛び交い、語り、歌い、叫び続けることになります。すべてを音楽のために、そのことが、すべてを平和のために、と同じ意味になる。それがジョンとヨーコです。

 1971年12月10日、ミシガン州のアン・アーバー大学で催された「ジョン・シンクレア支援コンサート」は劇的でした。誰もが期待した「ありえないこと」が起きたからです。

 ジョン・シンクレアはホワイト・パンサー党の活動家でした。黒人解放運動のブラック・パンサー党とは別に、学生やヒッピーによる政治運動としてホワイト・パンサーと名乗るグループです。シンクレアはマリファナ所持で禁固10年の刑を言い渡されて服役していました。マリファナ所持が事実としても、10年というのは均衡を失した過剰な刑罰であり、政治的弾圧の疑いが指摘されていました。支援コンサートへの出演を依頼されたジョンとヨーコは即座に引き受けました。

 「ぼくはジョン、隣にはヨーコがいる。ジョン・シンクレアを釈放するための資金集めパーティなのか政治集会なのか、とにかくちょっと挨拶に行くよ。バックバンドは連れていかずにひとりでね。なぜって、今はただ旅の途中といったところだからさ。でも、ギターはたぶん持っていくし、ジョン・シンクレアのために書いた曲を歌うよ。それだけさ。じゃあ金曜日に。ハロー、そしてグッバイ。うまくいくといいね。」

 アレン・ギンズバーグ、ボブ・シーガー、ティーガーデン&ヴァン・ウィンクル、フィル・オクス、ジ・アップ、アーチー・シェップらが次々と演奏し、ブラック・パンサーのボビー・シールやジェリー・ルービンがアジ演説を繰り広げました。そこにスティービー・ワンダーまで駆けつけました。

 ジョンがやってくると聞いただけでオーバーヒートした聴衆の前に本当に登場したジョンとヨーコは、いつものように気さくなそぶりで歌い始めました。

 北アイルランドの不正義を告発する「ザ・ラック・オブ・ジ・アイリッシュ(The Luck of the Irish)」で、イギリスによる圧政を批判しました。

 「アッティカ・ステート(Attica State)」では、アッティカ州刑務所における反乱時に射殺された囚人を追悼しました。1971年9月9日にニューヨークのアッティカ刑務所で起きた生活改善要求に対する軍隊による弾圧で、少なくとも39人が殺されました。

 聴衆がピークに達したのは「ジョン・シンクレア(John Sinclair)」が披露された時です。ジョンは支援コンサートのために新曲をつくって乗り込んだのです。「呼吸しただけで投獄するのか」と語り、10年は非常識だからシンクレアを釈放せよとストレートに訴えました。

 ジョンがやって来ると聞いて駆け付けた1万5000人の聴衆は大いに期待しました。新曲披露に立ち会う幸運をかみしめながら、「釈放せよ」と合唱しました。誰もが期待し、願い、夢見ながら、「ジョン・シンクレアを釈放せよ」。

 誰もが期待した「ありえないこと」が実現したのは48時間後のことでした。

<関連映画>
『PEACE BED――アメリカVSジョン・レノン』(監督:デヴィッド・リーフ、ジョン・シャインフェルド、2006年)
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