2017年05月19日 1477号

【未来への責任(224)強制動員の真相究明を(下)】

 1944年12月の東海地震と米軍の空襲により多大の損害を被った三菱重工業名古屋航空機製作所の疎開先は長野県であった。太平洋戦争末期の1945年4月から松本市山辺地区周辺の山沿いに数多くの地下、半地下工場の建設が熊谷組によって進められたが、完成することなく8月の敗戦を迎えた。これらの建設には、朝鮮半島から約7000人、中国からは約500人の捕虜が連行され強制労働に従事させられ、長野県内外の労働者、地元住民や学生なども多く駆り出されたと言われている。

 金華山(林城山)と呼ばれる小高い山の中腹にある地下工場への入口は、遠くからは見逃してしまうくらい分かりにくい。途中ロープを使わないと進めない急斜面に面していて、私たちは足元に気をつけながらようやくたどり着いた。当時何か所も掘られたうち唯一現存する入口である。

 坑内が狭いため、4つのグループに分かれ時間をずらして入っていく。地主と松本強制労働調査団との取り決めで入山に際しては必ず「同意書」の提出が不可欠となっている。その理由は坑内に入ってすぐに分かった。内部は崩落が進み、足元には鋭角の岩石が散乱している。途中土砂が崩れて天井近くにわずかな隙間が空いているだけのところや、身をかがめてもヘルメットにゴツンゴツンと岩が当たるような狭い坑道が碁盤の目のように地中に張り巡らされている。壁面に手を触れるだけで硬い岩がボロボロと崩れていく。危険な箇所である。

 奥に進んでいくと、「出張所」「熊谷組」「天主」などの文字や坑口からの距離を測ったと見られる90、130の数字が書き残されている。測量用の木柱の跡、ズリ(掘り出した土砂)を運んだトロッコ用のレールも見ることができる。坑道内は懐中電灯で照らされる場所以外は、漆黒の闇である。ガイドの人の「当時を振り返って電気を消してみましょうか?」との掛け声で一斉に懐中電灯の灯りを消すと、全く音も光もない別世界に置き去りにされた感覚に襲われる。

 当時を偲ばせる証言記録が残されている。「金華山に生えている松ノ木をきって、穴の支柱にし、板をはめながら掘りすすんでいく…なにせ岩山で、かたいこと、かたいこと。まずハッパで穴の奥をくずしてから掘りすすんだ…かみそりのようになった石を踏んで仕事をするので、地下たびはすぐ切れ、ワラぞうりは、半日ともたなんだですね。穴に入るとき、二足ぞうりを腰にぶらさげてはいるんだけれど、みんな切れちゃう。ぞうりつくりをおそわって、じぶんでつくったんだが、おいつかず、ハダシが多くて、足からいつも血が出ていました。下痢をして腹がいたくても、休むことはできませんでした」

 朝鮮や中国から連行されてきた人々と国家総動員体制のもと動員された多くの日本人も含めて侵略戦争継続のための愚かな地下工場建設に駆り出された人々の過酷な体験を71年の時を経て「共有」することができた貴重なフィールドワークだった。

(日本製鉄元徴用工裁判を支援する会 中田光信)

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