2019年06月21日 1580号

【非国民がやってきた!(308)国民主義の賞味期限(4)】

 日本思想史研究者の酒井直樹は、西川長夫の国民国家批判と<新>植民地主義研究を読み解きながら、現在の日本の国民主義と植民地主義に迫ろうとします。

 西川長夫『植民地主義の時代を生きて』の次の一節は、植民地主義研究において幾度も引用されてきました。

 「私が本当に言いたいのは、むしろ植民地問題の研究は常に一つの過程であって、的確な結論に至ることは私たちにはありえないだろう、というペシミスティックな予想です。私たちが近代という時代に生きている以上、植民地主義はあらゆる場面、あらゆる次元で私たちに付きまとって離れない。国家や社会のあらゆる部分、あらゆる組織のなかで発生し機能している植民地主義。自己の身体や内面で育成され、時に他者に向けて強力に発散されて他者を傷つける植民地主義。他者への視線、他者に対する暴力のなかに潜む植民地主義。性差や身分、貧富や階級、身体的能力と結びついた植民地主義。国際的な力関係は言うまでもありませんが、植民地主義は私たちが社会や様々な集団の中で占める位置によって姿を変え、あるいは姿を隠して現れます。」

 読みようによっては、あらゆる場面、あらゆる組織に植民地を見いだす「<植民地主義>主義」であり、過剰な植民地主義論であり、救いのない議論です。遍在する植民地主義、植民地主義の蔓延。私たちは植民地主義の虜囚に過ぎません。的確な結論の可能性を予め封じたペシミスティックな予想は、多くの研究者を困惑させるものでもありました。

 酒井は「ここで西川長夫は植民地主義には実定的な外部がないことを述べています。植民地主義の外に立って、植民地主義から自由にものを言ったり考えたりできる場所は、私たちには与えられていないということです」と言い換えます。

 私たちは植民地主義の外に出ることはできない。私たちは植民地主義のなかにいるのであり、植民地主義は私たちのなかにあるのであり、それは抜き差しならぬ関係で、引き離すことも、対象化することもできない。

 それでは私たちはどのようにして植民地主義を認識し、批判することができるのでしょうか。

 植民地主義は常に自己言及的でなければならないのでしょうか。

 永遠の自己言及、自己研究としての植民地主義研究。

 終わりなきプロセスとしての植民地主義研究。

 それはシジュフォスの岩に立ち向かうことに他ならないのでしょうか。

 そもそも<私たち>とは誰なのでしょうか。近代国民国家の構成員すべてなのでしょうか。現に植民地支配を行っている国、行ったことのある国の国民を指すのでしょうか。これらの国民は予め植民地主義の中に宿命的に閉ざされているのでしょうか。

 酒井はさらに次のように論定します。

 「植民地主義と独立した国民国家主権とが、あたかも二者択一的に対立していて、お互いが選言的な関係にあるとする思い込みを受け容れるわけにはゆきません。特に戦後の日本の国民主義を考える上で、植民地主義と国民主義とは相互に依存する体制であると考えなければならない理由がここにあります。国民主義が新たな装いで粉飾した植民地主義である蓋然性を忘れてはならないのは、このためです。」

 ここでは、近代国民国家と植民地主義の抜き差しならない関係を前提として、「特に戦後の日本」について国民主義と植民地主義の相互依存関係を問う必然性が指摘されています。
 
<参考文献>
西川長夫『植民地主義の時代を生きて』(平凡社、2013年)
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