2019年06月28日 1581号

【新・哲学世間話(10) 「一人で死ね」―橋下徹の「現実論」 田端信広】

 橋下徹がまたまた問題発言を放っている。発端は川崎市で起きた児童殺傷事件である。「他人を犠牲にしないことが絶対的な第一順位」と主張してきた橋下は、自殺したこの犯人に「自殺するなら、一人で死ね」とブログで語った。この乱暴な発言に、テレビ朝日のコメンテーターが批判を加えた。そこから話はあらぬ方向へと展開していく。

 橋下は、農水省元事務次官が起こした「ひきこもり」の息子の殺害事件に言及し、あの「第一順位」に則って、自分は元事務次官を「責められない」と発信する。なぜなら、その犯行の動機は、息子が川崎市の事件のように「他人に危害を加えてはいけないと思った」からだと伝えられているからである。

 橋下も「近代国家の刑法としては、危険性があるだけでは処罰できない」ことは認める。人は何か「危険なこと」を考えただけでは罰せられない。実際になされた行為についてだけ、法に照らして罰することができる。

 それでも、彼はこう続けている。「しかし、本当に他人を犠牲にしてしまう危険が自分の子どもにあると判断したときには、社会が処罰できないのであれば、親が処罰するしかない」のだ。

 ここにはいくつもの論理の飛躍がある。そもそも、息子には実際に「他人に危害を加える」危険性があったのか。その危険性があるという「推定」だけでは、「社会は処罰できない」。それを、なぜ「親なら処罰できる」のか。それは、法に違反していても、自分の子どもに対しては、私的刑罰(リンチ)が認められるということにつながりかねない。その根底には「子は親の所有物」という古い観念があるとしか言いようがない。

 この発想法には橋下の危うい体質が現われている。

 「ひきこもり」や「いじめ」は言うまでもなく、今や重大な社会問題である。たしかに、その問題を抱える当事者の悩みや苦痛はまったく「私的」であっても、それらは社会の現状が生みだした問題である。それゆえ、その解決には、社会的ケアやサポートが不可欠である。

 そのような社会的解決を説く人たちに橋下はこう反論する。―それは社会の「現実」を知らない者の「抽象論」、理想論だ。現に悲惨な状況に追い込まれた人たち(たとえば元次官)には、何の役にも立たない。現実はきれいごとではすまず、万やむを得ない私的刑罰もありうるのだ―。こうして「社会的」問題を「私的」問題に変えてしまう。

 彼の「現実論」は、「社会的」現実の特殊な(私的)側面だけを意図的に強調し、それに彼の個人的信念や確信を混ぜ合わせたところに成立している。この「エセ・リアリズム」は、社会的規範や理想を小馬鹿にし、それに冷水を浴びせる。今回もまた、そうなのである。

   (筆者は元大学教員)
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