2019年07月05日 1582号

【非国民がやってきた!(309)国民主義の賞味期限(5)】

 「私たちが近代という時代に生きている以上、植民地主義はあらゆる場面、あらゆる次元で私たちに付きまとって離れない。」(西川長夫)

 「植民地主義と独立した国民国家主権とが、あたかも二者択一的に対立していて、お互いが選言的な関係にあるとする思い込みを受け容れるわけにはゆきません。」(酒井直樹)

 近代という時代に生み出された国民国家というプロジェクトに植民地主義が内在しているとすれば、私たちはいかにして植民地主義を対象化し、克服することができるでしょうか。

 国民国家そのものを終焉させる以外に、植民地主義を乗り越えることはできないのでしょうか。

 99%の日本国民によって成立しているという意味では、国民国家の極致とも言える日本の国民主義と植民地主義には「外部」が存在しないのでしょうか。

 もちろんそうではありません。酒井直樹は問いを「パックス・アメリカーナの終焉とひきこもりの国民主義」という平面に差し戻します。日本の国民主義と植民地主義には、パックス・アメリカーナの支え、枠組み、同時に限界があるからです。酒井は次のように続けます。

 「戦後の日本国民は、アメリカ合州国をあたかも父であるかのように、畏怖しつつ憧憬しました。東アジアや西太平洋の国々や人々にあれだけ酷いことをしておきながら、自責の念から比較的まぬがれてきたのも、日本の非戦闘員に対する連合国の原爆投下や無差別爆撃などの残虐行為を過度に大目に見てこざるをえなかったのも、まさにこの家父長的なまなざしの中に安住していたからでしょう。日本を外交・軍事・経済的に庇護する国際秩序であると同時に、パックス・アメリカーナは日本国民が従うべき道徳的規範の体系の役割も果たしていたわけです。」

 パックス・アメリカーナが日本の「外部」であると同時に「内部」であるという逆説。

 対米「従属」こそが日本の「独立」につながるという倒錯。

 父たるアメリカの庇護のもとで畏怖と憧憬の間を揺れ動く悲哀。

 ここに日本の国民主義の捻れた現在があります。一見すると、「単一民族国家」論が繰り返し登場するほどの日本民族国家であり、高度経済成長以来、発展する同質的社会の平和と安定を誇ってきた戦後の条件は、実はパックス・アメリカーナに他ならなかったのです。

 「パックス・アメリカーナの呪縛」――外交・軍事・経済のみならず、道徳的にも完全敗北したあげく、アメリカに擦り寄り、取り縋り、必死に「恥知らず」をめざしてきました。

 ところが、いまや「パックス・アメリカーナの終焉」を前に、日本は歴史を否認し、他者を否認し、「国際社会から『ひきこもる』傾向と脱植民地化を拒絶」しています。酒井は「ひきこもりの国民主義」と命名しました。

 その庇護がなければ国際社会で孤独に佇むしかない日本は、誇りを投げ捨て、希望を押し潰し、未来を切り刻みながら、アメリカに拝跪し、兵器の爆買いに走るしかないのです。

 国民主義を沸騰させるためにアメリカに拝跪する矛盾を矛盾と感じない精神を鍛えるために、「戦後民主主義」の70年があったと言っては言い過ぎでしょうか。

 このように言わざるを得ないのは、己の未来だけを切り刻んでいるのならともかく、周辺諸国・諸地域・諸民族の未来を勝手に処分しようとしているからです。沖縄への米軍基地の押しつけ。日韓間の歴史認識をめぐる軋轢。米中対立の危機に便乗した軍事化路線。さまざまな意味で日本は地域の平和と安全の攪乱要因となっています。

 酒井直樹は、アジアに背を向けて「ひきこもる」日本を的確に表現しました。

 ところが、日本は「ひきこもる」だけではありません。虎の威ならぬ米の威を借りて出しゃばる体質を持っているのです。「ひきこもりながら、出しゃばりたがる国民主義」です。日本の国民主義と植民地主義が活性化し、周囲を脅かすのはこのためです。
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