2021年07月23日 1683号

【時代は社会主義へ<第7回> 生産の「社会化」と「私的」取得の矛盾――『空想から科学へ』(3)】

 第三章は、空想的社会主義者がまだ見抜けなかった問題、資本主義社会の根本矛盾を明らかにしています。その矛盾とは、生産の「社会化」と生産の成果の「私的」取得の矛盾です。矛盾とは、「矛(ほこ)」と「盾(たて)」のように、「真逆のもの」が同時に共存しているような関係のことです。

 「社会化」とは、物の生産が多くの労働者の協働活動だということを指しています。生産は「多くの人の手」を通っているのです。資本主義は――さまざまな分業制度を導入して――生産過程を「社会化」することで急速に発展してきました。それでも、その成果はあいかわらず「私的に」取得されています。生産が「社会化」されているにもかかわらず、その成果が「私的」であることが「矛盾」しているのです。

 たとえば、中世社会の村の鍛冶屋のことを思い浮かべてください。彼は一本の鍬(くわ)を作るのに、材料すべてを自分で調達し、一切人の力を借りずにそれを一人で作り上げます。だから彼は「この鍬は俺の作ったものだ、俺のものだ」ということができたのです。この場合、生産の様式と取得の形態はともに「私的」であり、「矛盾」はなかったのです。

 現代ではそうは言えません。1台の車は何百人もの労働者の手を通して作られます。生産は徹底的に「社会化」されているのです。その生産に携わっただれも「この車は俺のものだ」と言えません。生産の成果は資本家の手に帰します。これが成果の「私的」取得ということです。

 もちろん、現代ではその資本家とは、昔のように一人あるいは少数の「工場主」(個人オーナー)とはかぎりません。現代の資本主義を牛耳っている大企業の場合、「資本家」とは大株主たちのことです。その大株主たちは車の生産には一切かかわっていないのに、つまり労働していないのに、株の「配当金」というかたちで、生産の成果を「私的に」取得しているのです。たしかに大株主も多数いますが、それでもその人びとによる取得は「私的」であることに変わりはありません。

 生産に携わっていない者がその成果を私的に取得できるのはなぜなのでしょう。それは生産手段が「私的に」所有されているからです。生産手段の「私的所有」が成果の私的取得を合法化しており、またそれが資本主義的搾取(さくしゅ)の源泉でもあるのです。

 さて、そうすると、生産の「社会化」とその成果の「私的」取得の矛盾を解消する途(みち)は、理論上はおのずと明らかでしょう。その矛盾は、生産手段の「私的所有」を廃止して、「社会的所有」に変えることによってしか解消されないのです。生産手段の「社会的所有」とは、生産手段を生産に携わる労働者の共有にするということです。つまり、企業を「資本家」の支配と管理から取り戻し、労働者自身による運営と管理に変えることです。

 その具体的な一つの形態が「労働者協同組合(ワーカーズ・コープ)」なのです。ここでは、労働者が直接的、間接的に企業の生産活動の運営と管理にかかわり、その責任を負っています。それは労働者の自主管理と呼ばれるものです。

 生産手段の「社会化」ということを、ただちに「国有化」と結びつける必要はありません。「国有化」は最も大規模な「社会化」の一つの例です。生産の規模や特性に応じて、さまざまなレベルで「社会化」の適性なあり方が考えられねばなりません。

 資本主義を社会主義に変えるためには、まずなによりも、このような資本主義経済の根本「矛盾」を解消すること、生産手段の「社会化」を実現することが必要なのです。そのことによってこそ、「搾取」をなくすこと、資本主義的搾取から派生する差別や抑圧を廃止することが初めて可能になるのです。《この項終り》 
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