2007年09月07日発行1001号

前田 朗の「非国民がやって来た!」(19) 金子文子・朴烈(4)

 朴烈は金子文子より一つ年上です。1902年に朝鮮慶尚北道に生まれています。ここも元は名家です。身分は両班(やんばん)です。両班とは当時の朝鮮の地主階級、お金持ちの階級です。歴史的に由緒のある朴家の二男として生まれています。1906年に父親が死んで兄が遺産を相続しますが、この頃から家は傾き始めます。地主でお金持ちだったのが、父親の代で傾いて、暮らしが苦しくなっていきます。1908年に書堂(学校)に通って勉強し始めます。非常に激しい性格の持ち主で、自分でもそう思っていたので「烈」という通称を名乗ります。本名ではなく、激しい性格を自称していたのです。

 1909年に準植という名前になったので、本名は朴準植です。一般的には朴烈で通します。1916年に京城高等普通学校師範科に入学します。そして1919年に「3・1運動」が起きた時に、運動に参加して朝鮮独立のビラを配っています。

 叔母の家にいた文子は3・1運動を目撃して、朝鮮人が立ち上がったのに感動した訳ですが、その頃朴烈は、朝鮮独立のために政治活動を始めていました。ところが日本支配下なので、朝鮮独立のビラを配ると身辺が危ない。朝鮮半島では取締りが厳しいので、これ以上活動ができない、名前が知られてしまったのでまずいと言う訳で、東京に出てきます。

 1920年夏に東京にいた朝鮮人留学生とともに「血拳団」を結成して、朝鮮人なのに親日派になっている人たちを攻撃します。やはり1920年に金若水や元鐘麟等と「苦学生同友会」を結成します。同じメンバーで1921年に「黒濤会」をつくります。この頃から社会主義ないし無政府主義になっていく訳です。1921年暮れに杉本貞一に、外国から爆弾を手に入れてくれるよう依頼しています。1922年には、上海臨時政府の崔●鎮と江戸川公園でこっそり会って爆弾入手計画の相談をしていたといいます。

 文子は差別されてきました。社会主義者に出会っても、調子のいいことを言っているけれども、どうも偽物だ。人間が信用できない。そういう中で朴烈にだけは惹かれました。烈は誠に生きている、懸命に生きている人間だということで、烈にプロポーズしています。烈からではなく、文子からプロポーズします。「あなたは女性差別をしませんね」「私と同士として一緒に暮らしてくれますか」。朝鮮人が差別されている、自分は日本人だけれども、こういう人生を生きてきた。あなたは女性を差別しないか。私は朝鮮人を差別しない。同士として一緒に頑張って行きましょう、と。この時、文子は何人分もの人生を一気に飛び越えたのでしょう。

 1922年4月、世田谷区池尻で同棲します。黒濤会で活動し、機関誌『黒濤』を発行します。ちょうどこの時、新潟県中津川で朝鮮人虐殺が起きます。烈はすぐに中津川へ行って調べます。どういう状況で朝鮮人が殺されて、捨てられたのか調べて来て、東京で演説会をやります。朝鮮基督教青年会館で「新潟県朝鮮人労働者虐殺事件調査会」を開きます。これは日本政府にとっては都合が悪いので中止させられます。日本人が朝鮮人を殺した虐殺事件を公表してはいけないということです。9月にはソウルに行って報告します。その際、いろいろな人たちと連絡を取りながら、「北星会」とか「黒友会」をつくります。11月にソウルで人に爆弾を手に入れてくれと頼みます。何度か爆弾の話が出てきますが、一度も手にしたことはありません。爆弾が欲しいねと話をしていただけです。

<参考文献>

布施辰治他『運命の勝利者朴烈』(世紀書房、1946年[黒色戦線社、1987年]) 

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