2006年10月12日発行1005号

前田 朗の「非国民がやって来た!」(21) 金子文子・朴烈(6)

 真白なる朝鮮服を身に着けて

    醜き心をみつむる淋しさ

 1924年4月24日、文子は、一緒にやりましたと供述します。皇族と政治の実権者に対し爆弾を投げつけるために、朴烈と相談の上、爆弾入手を依頼したことがあった。そういう風に文子は供述します。烈も、その通り、これは不逞社とは関係がない、自分と文子の夫婦で考えた事件であると喋ります。2月15日になって、2人は「爆発物取締罰則」違反容疑で起訴されて、他の不逞社メンバー16人は不起訴に終わります。当局は16人全員でやったことにしようとしたのを、烈と文子が、2人でやりました、他の人たちはやっていません、関係ありません、ということで他の人たちを助ける。自分たちだけが犯人だと頑張る訳です。

 ところが日本政府は、それでは困る。文子が犯人では困る訳です。文子に考えを変える様に何度も説得します。1925年5月4日、立松懐清判事が、それだと刑法73条の大逆罪になってしまう。それでは困るから、文子は違うんだ、供述を改めなさい、転向しなさい、申し訳なかったと一言言えば助けてやるから、と説得します。しかし、文子はそれには答えない。自分は烈と同じ考えです、烈が皇太子を殺そうとして、爆弾を手に入れようとした。だったら自分も一緒です。これを絶対に改めない。文子は何もしていないのですが、自分は烈と同じであると転向を拒否したために起訴されます。

 7月17日、大逆罪容疑で起訴されて、1926年、裁判が始まります。

 「真白なる――」の歌は多様に解釈できます。1つは、烈の妻として、真っ白な朝鮮服を身につけて法廷に立っているけれども、自分はそれにふさわしくない、心がまだ醜いという解釈です。もう1つは、そうではない、自分たちは朝鮮民族解放のために、差別に抗議して闘っている。それなのに、押しつぶそうとする日本人。その日本人の醜い心を見ているのが淋しい。そういう意味で解釈することもできます。

 3月23日、文子と烈は、婚姻届を出して「正式」に夫婦になります。2日後に大審院(当時の最高裁判所)で死刑判決がでます。大逆罪は、天皇やその一族を殺したら死刑、殺そうとして何かしたら死刑。死刑以外にないという条文でした。文子と烈は、皇太子を殺そうと思って爆弾を手に入れようとして人に頼んだ、手には入らなかったけれど、人に頼んだ。だから大逆罪で死刑です。

 ただ、いくらなんでも、人に頼んだだけで、それ以上何もしていないので、本当に死刑にはできないということで、4月5日に恩赦によって無期懲役に減刑になります。文子はこの恩赦を拒否しますが、政府としては恩赦ということです。烈は千葉刑務所に移され、文子は宇都宮刑務所栃木支所に移されます。現在の栃木女子刑務所です。そして1930年7月23日、文子は宇都宮刑務所栃木支所で首を吊って自殺したことになっています。23歳でした。遺骨は刑務所の共同墓地に埋められますが、布施辰治(弁護士)等が夜中に掘り出して遺骨を持ち帰って、11月5日、朝鮮慶尚北道に埋葬します。大逆事件の犯人ですから日本には埋葬できない。墓地に入れることができない。実家も引き取らない。文子の遺骨の行き先はないというので朝鮮慶尚北道に埋葬されました。

<参考文献>

『金子文子・朴烈裁判記録』(黒色戦線社、1991年)

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