2007年10月26日発行1007号
前田 朗の「非国民がやって来た!」(22) 金子文子・朴烈(7)

 我が好きな歌人を若し探しなば

       夭くて逝きし石川啄木

 迸る心のままに歌ふこそ

       真の歌と呼ぶべかりけり

 彼らの考え方に少し触れてみましょう。朴烈は、取調べの中で、こういうことを言っています。

 「第一に日本の民衆に対しては日本の皇室が如何に日本の民衆の膏血を搾取する権力の看板であり、又日本の民衆の迷信して居る様な神聖なる事神様の様な者では無くて実は其の正体は幽霊の様な者に過ぎない事を、即ち日本の皇室の真価を知らしめて其の神聖を地に叩き落とす為、第二に朝鮮民衆に対しては同民族が一般に日本の皇室を総べての実権者であると考えて居り、憎悪の的として居るから、此の皇室を倒して朝鮮民衆に革命的独立的情熱を刺激するが為、第三に沈滞して居る様に思わるる日本の社会運動者に対しては革命的気運を促す為めにあったのだ」(『裁判記録』56頁)。

 つまり、天皇は神様だなんて言っているけれどもそんなことはない。あれは人間に過ぎない。それを明らかにするために、爆弾で殺してしまえば解るだろうという話です。

 しかし、烈は必ずしも天皇・皇太子だけを爆弾投擲対象と考えていたのではありません。

 「日本の社会組織を転覆させる為には元老、大臣、官僚、軍閥又は資本家等の政治経済上の実権者を抹殺した方が、天皇、皇太子を殪すより効果があるかも知れぬが、日本の天皇、皇太子を殪すことの有意義なる事は今云った通りであるから、俺は破壊的行為の対象の中に此の両者を重要なるものとして挙げて居たのだ」。

 文子は、立松判事から皇太子殺害などという重大事件を本当に起こしたのかと問われて、転向を迫られます。やってませんと言えば、助かる訳です。やったにしても、考え違いでした、すみませんといえば命が助かる。そこで立松判事も何とか文子を助けようとします。被告は何とか反省するわけにはいかぬか、反省しますと一言言えば、命は助かるぞ。ところが、文子はあくまで転向を拒否して反省しません。ずいぶん悩んだけれども反省しないと決める訳です。

 「私が過去に於いて又現在に於いて、大逆の名を以て呼ばるべき思想をもって居た、又もって居る。そして其れを実行しようとした事もある。尚、自分のそうした言動に、反省する余地はない、他人に対しては云うまでもなく、自分自身に対してすら」。

 文子の頭の中で数々の思念の闘いがあったはずです。

 山田昭次『金子文子』によると、「第一に、文子の立論の基礎にすべての人間は自然的存在としては平等であり、自然的存在としての人間の行動は平等であるという考えがあった」。

 「地上に於ける自然的存在たる人間としての価値から云えば全ての人間は完全に平等である」のだから天皇だけが特別であるというのは許せない。

 「第二に、不平等は権力によって作られた人為の法律や道徳によって作られた」。

 だから法律が間違っていることになります。

 「第三に、文子は『地上の平等なる人間生活を蹂躙している権力と云う悪魔の代表者は天皇であり、皇太子であります』と天皇・皇太子を権力の代表者と見た」。

 「第四に、文子の反天皇制のもう一つの根拠は天皇制は民衆の生命や自我を剥奪するものであるという点にあった」。

 これが文子の思想の到達点です。

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