2011年06月10日発行 1185号

【被災地は今―原発避難者の思い 「原発の仕事には戻らない」 東電の孫請け会社の原発労働者 震災当日は第1原発内で 作業】

 1183号に続き、福島第1原発事故から避難し、会津若松市の体育館での生活を余儀なくさ れている避難者の思いを紹介する。

牛はどうなるのか

 福島県双葉郡富岡町に住む堀本さん。夫、娘と3人でこの体育館に避難してきた。

 富岡町は福島第1原発の南側、20q圏内の町で、第2原発のすぐ北にあり避難指示区域に指定されている。

 堀本さん一家は、富岡町で畜産業を営んできた。原発が危険だとして避難指示が出され、着の身着のまま、避難は一時的ですぐに帰れるものと思っていたの で、本当に何も持たずに避難した。避難所を転々としてここに。「牛が逃げないようにと牛舎には鍵をかけてきた。えさもなくどうなっているのだろうか」と堀 本さんは心配する。

 「冨岡に帰ることができないのなら、牛をどこかに引き取ってほしい。それもできなのなら、国や県は責任をもって処分すると約束してほしい。畜産ができな くなれば、これからどうして生活していったらいいのかわからない」と涙ながらに訴える。

 堀本さんの自宅は地震の被害は少なく、避難しなければならないほどではなかった。それが、原発事故という人災により避難を余儀なくされ、大切な牛も見殺 しにしなければならなくなってしまった。無念さははかりしれない。

鉄塔の上で配線作業

 南相馬市の避難指示区域に住んでいた橋さん。7人の大所帯で避難生活を送っている。

 橋さんは、東京電力の孫請け会社で働いていた。震災当日も第1原発内の放射線管理区域外にある鉄塔の上で配線作業をしていたという。

 橋さんによれば、最初の大きな強い揺れで原発の中は大変な状態になっていた。鉄塔は傾き電線は切れ、建屋も大きな被害を受けた。道路はあちこちで陥没 し、車の通行もままならない。津波が来る前、地震の時点で原子炉は大きなダメージを受けていたと考えている。関係者はみなそう言っているそうだ。

 退避命令が出たので、車で原発を出て自宅に戻り、家族、両親と一緒に原発から50q以上離れたところに避難。車の中で一夜を明かした。堀本さんと同様、 いくつかの避難所を経た後この体育館にたどり着いた。高橋さんはその後、原発の近くには行っていない。会社から「作業員が不足しているので仕事に戻ってほ しい」という話があるが、放射能が怖いので断っている。これからも原発の仕事に戻るつもりはない。

 ここに来た時にはまだハイハイをしていた下の娘が、いまでは立って歩くようになった。小さな子どもにとって体育館での避難生活は決して好ましいものでは ない。「避難所生活も長くなってきたが、これから先どうなるのか、どうしたらいいのかまったくわからない」と橋さんは不安を打ち明ける。収入も途絶え、 2次避難の希望を出していなかったので、旅館やホテルに行くこともできない。

不安な生活が続く

 家族で相談した結果、南相馬市役所に2次避難の希望を出すことにした。市役所からは、辞退する人もいるので調整するとの返事があった。うまく2次避難先 が確保されたとしても、7月までの仮住まいである。橋さんにとっても、まだまだ不安な生活が続く。

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 事故から、はや2か月以上が過ぎたが、避難所ではなお多くの避難者が生活している。原発避難者の苦悩は続く。
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