2011年07月08日発行 1189号
【原発避難者の集い 京都 苦しみを抱え込まず、避難者同士で確認 「避難という選択は正しかった」】
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6月25日、京都で暮らす原発避難者をつなぐ集いが開かれた。今後のネットワークづくりへ
の弾みとなる感動的な集いとなった。なによりの成果は、避難者同士が「逃げてきた」という罪悪感や家族を残してきたことへの負い目を払拭し、避難という選
択肢が正しかったことを確認し合ったことだ。
「うつくしま☆ふくしまin京都」をタイトルにした避難者の集いは、「京都の原発避難者が集まれる場をつくろう」と企画され、「被災者本人にしか分から
ない痛みを、一人で抱え込まずに、共有しませんか」と呼びかけられた。
手探りでつながり求めて
会場ほぼ満杯となる約60人が集まった。多種多様な支援者、サポーターが参加した。生活保護ケースワーカー、保健師、精神保健相談士、保育士、医者。コ
ピーライターから「車が必要ならいつでも連絡を」と申し出る人まで。
避難者を囲む茶話会のグループ交流の冒頭は、「サポーターの方が多い。避難者がもっといると思ったのに」という話題になった。主催者の一人、奥森祥陽さ
んは「行政は避難者の資料を持っているが、個人情報保護を口実に教えてくれない。取り組みは手探りとならざるを得なかった」と報告。集いの案内チラシは避
難者が住むと思われる府営住宅などにポスティング。直前になって福島ナンバーの車に注目すればよいことを発見。駐車場を回って福島ナンバーの車のワイパー
にチラシを挟み込んだ。
交流では、避難者が自らの抱える不安や苦しみを包み隠さず語った。
「80歳の親は『この年で知らない土地に行くよりも』と近くの避難所を選んだ。一人で自炊していると思うと苦しいだけ。早く帰った方がいいのかなとも思
う。京都弁を聞くだけで孤立する。つらい。それに言う機会もなかった。私たちは忘れられるのが一番こわいんです」
「戻りたいと思うけど、向こう(福島)は何も変わっていない。政府の情報に屈したくない。何も知らないで抱え込んでいる人が多いと思う」
ネットワークのスタート
共通するのは、放射能汚染からの避難だ。
茨城県から子ども5人と避難してきた夫婦は「6人目を妊娠中だった。放射能が怖くて、仕事もやめて、京都に来た。やっと住む所を確保した。でも行政は私
たちを被災者扱いしてくれない。茨城県だからだ」と行政の対応を批判する。
前夜車のワイパーのチラシを見て参加した福島市の女性は「福島市ではなかなか逃げ出せない。あの山下俊一(県健康アドバイザー)がデタラメを言いまくっ
て、逃げることが悪いという雰囲気をつくっている」と紹介した。
郡山市の20代の女性は、親を残して自分ひとりだけで避難してきたことにずっと戸惑いを抱え込んでいた。集いにはその母親も参加し、「この子は親のこと
を気にしているが、そんなことないのに」と説得。南相馬市から家族で避難した女性からも「南相馬では『あの人、逃げた』と言われる。男性の抵抗も大きい。
でもあなたの選択は正しかったの。命をつなぐ女性として避難という道は絶対に正しい」。20代の女性は感激の涙をぬぐうことはなかった。
交流会は避難者同士が久しぶりの福島の言葉で語り合う場に。サポーターはやりとりをじっと聞き入った。
参加した原発避難者は7家族、11人だった。集いの最後に、お互いがメールアドレスや連絡方法を教えあった。不安を抱えての参加だったが、別れ際はさわ
やかな笑顔で手を振り「じゃー、またね」。
奥森さんは「2人で始めてやっとここまできた。ネットワークのスタートです」。次回は7月23日午後、関西名物のたこ焼きパーティの予定だ。
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