2011年11月25日発行 1208号
【非国民がやってきた!(122)〜小林多喜二(12)】
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あ
あ、またこの2月の月が来た。
本当にこの2月という月が
嫌な月、声を一杯に
泣きたい どこへ行っても泣かれない。
ああ でもラジオで
少し助かる
ああ涙が出る
眼鏡がくもる
多喜二の母セキの有名な文章です。秋田県の釈迦内村の小作農の娘・木村セキは、1886(明治19)年頃に、
大館町の近くの農家・小林家に嫁ぎ、1906年に小樽に移住しました。長女ちま子、息子は多喜二と、後にバイオ
リニストになる三吾、妹のゆき子を育てた平凡な幸せな母親でした。多喜二がプロレタリア作家として知られ、特高
警察に追いまわされるようになるまでは。
多喜二が逮捕・勾留されると差し入れをし、手紙を書かなくてはならなくなり、読み書きを学びます。そうして書
いたのが上の文章です。
セキが語った多喜二が、つい最近出版されました。治安維持法・特高警察研究の第一人者である荻野富士夫(小樽
商科大学教授)が、1946年に出版されるはずだったのに日の目を見なかった『母の語る小林多喜二』を発掘し、
出版にこぎつけたのです。セキから聞き取りをして執筆された文章です。編著者は小林廣といいます。1895(明
治28)年、北海道東遠浅生まれで、旧朝里村育ち、正規の学歴なし、17歳で鉄道員、24歳で村役場書記、30
歳より水産団体職員で、朝里郷土研究会創設。著書に郷土史『定山と定山渓』『朝里郷土史概観』があり、
1955(昭和30)年、60歳で亡くなっています。
小林廣は、多喜二の姉・佐藤ちまとその夫・藤吉と同じ町内に住み、藤吉とは幼馴染でした。ちまの親友・鍋山キ
ミヨと結婚しています。佐藤家で老後を過ごしたセキから話を聞き、記録を残し、出版を企画しましたが、果たせま
せんでした。それが65年目に出版されることになりました。
小林廣の手が加わっているとはいえ、自慢の息子への母親の優しいまなざしが痛いほど伝わってきます。多喜二が
家族に宛て出した多くの手紙は、特高警察の手に渡ることを恐れてすぐに焼き捨てていたので、ほとんど残されてい
ないこと。上京後の多喜二の獄中生活や地下生活の日々をどのような思いで暮らしていたかが語られています。「多
喜二の信念通りさせるのこそ多喜二の本望であろう」。多喜二の死を知らされ築地署に駆け付け、変わり果てた遺体
に面した時の嘆きと悲しみ、お通夜や、解剖や葬式さえも妨害された苦しみも胸に響きます。
多喜二には戒名がつけられていました。小樽新富町の龍徳寺の「過去帳」によると「物学荘厳信士」といいます。
住職は子どもの頃から苦労した人物で、多喜二に同情し、セキにも慰めの言葉をかけ、世間体をはばかりながらも法
要をいとなみ、戒名を付けたということです。「『物学』に唯物論者という意味が込められているとすれば、宗教と
は矛盾するものの、多喜二にふさわしい戒名といえよう。『荘厳』も、多喜二の文学と生き方をみれば、よく当ては
まる」(荻野富士夫)と言えます。
<参考文献>
小林セキ『母の語る小林多喜二』(新日本出版社、2011年)
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