2015年07月03日発行 1385号
【沖縄恨之碑の会が総会・講演会 沖縄戦70年に朝鮮人軍夫を追悼 ―恨(ハン)之碑の前で思いひとつに―】
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平良修牧師が記念講演
沖縄恨之碑の会は6月13日、読谷村(よみたんそん)文化センターで、NPO法人としての総会と、戦後70年特別企画として理事の一人である平良修牧師の講演会を開催した。
恨之碑は、70年前の沖縄戦で犠牲となった朝鮮人軍夫を追悼するモニュメントだ。
朝鮮人軍夫とは、日本軍の飛行場建設や築壕工事、荷役・弾薬運搬などの労務のために朝鮮半島から強制徴用された多くの青年たちのことをいう。沖縄には約1万人が徴用されたが、その多くが戦場で亡くなり、いまだに詳しい実態はわかっていない。
九死に一生を得て生き延びた元軍夫たちが、97年沖縄で開催された全国交歓会(現全交)で「亡き同胞の遺骨収集が叶わぬなら、追悼のための碑の建立を」と切望された。全国から1500万円の寄付が集まり、99年に韓国慶尚北道英陽(ヨンヤン)に1基、もう1基が06年に読谷村に建立された。
記念講演の講師である平良修牧師は、伊江島の故・阿波根昌鴻さん、元那覇市長の故・瀬長亀次郎さんと並ぶ日米両政府に抗う三傑と呼ばれる。平良さんは、沖縄キリスト教短期大学初代学長当時の1966年、米軍統治下の琉球列島米民政府高等弁務官フレデリック・アンガーの就任式典でキリスト者を代表して「最後の弁務官になってほしい」と祈り、反米の県民の意思を公式の場で代弁したと国内外で知られることになった。
講演は、宮古島での生誕、キリスト者として洗礼を受け沖縄の地で民衆の立場から闘い続けてきた半生を振り返るものでとても1時間では終わらない。米国での神学校時代、金武湾CTS石油備蓄基地や喜瀬武原(きせんばる)の闘い、恨之碑建立など話は尽きない。今後、会として講演記録の冊子発行を検討している。講演会には70名が参加した。
碑の前に流れる歌
短い梅雨が明け、真っ青な空が広がる読谷村瀬名波の高台にある恨之碑前の追悼会に、講演会を終えた市民が続々と駆け付けた。碑の前には、花束や重箱、菓子、果物などが供えられ、韓国の太平洋戦争被害者補償推進協議会から寄せられた横断幕やタペストリーも広げられた。
会副代表で僧侶の知花昌一さんとユ・ヨンジャさんによる読経で幕開け。追悼の辞が碑の周りにある大樹に染み透るように響く。
オスプレイ配備阻止の普天間基地野嵩(のだけ)ゲート前行動で誕生した「ゴスペルを歌う会」のキリスト者10数人によるコーラス。プロテスト・ソングの『勝利を我らに』など会場一体となって歌声はこだまし、頭上の野鳥がピィーとさえずった。
会理事で反戦地主・違憲共闘会議議長の有銘(ありめ)政夫さんが、自身お気に入りの戦後の民謡「艦砲ヌ喰エヌクサ―」を歌う。1畳に砲弾1発が炸(さく)裂した「鉄の暴風」と呼ばれる激しい米軍の艦砲射撃でも生き延びたことを歌った曲だ。有銘さんは2年前から琉歌(琉球の短歌)を始めた。きっかけは前仲井真弘多(ひろかず)知事が辺野古埋め立て承認をしたことへの怒りの気持ちを表現したこと、というエピソードも紹介された。有銘さんの創作した琉歌は毎週辺野古ゲート前に貼りだされ、三上智恵監督の最新映画『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』の題名にもなった。
同じく理事の海勢頭(うみせど)豊さんも「沖縄から安倍政権を世直ししよう」と呼びかけ、『喜瀬武原』『月桃』『琉球讃歌』を熱唱。会代表の安里英子さんを先頭にカチャーシーが始まりどこからか蝶も舞った。名桜大学の学生10人も参加し、韓国の留学生は元軍夫の故・姜仁昌(カンインチャン)さんの証言テープ起こしについて語った。
総会、講演会、追悼会と長時間に及ぶ取り組みであったが、沖縄戦70年、日韓国交正常化50年という節目の年にふさわしく、慰霊の日を前にして元軍夫の恨を解くひとつとなったと思う。
(NPO法人沖縄恨之碑の会事務局長・西岡信之)
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