2016年04月01日発行 1422号

【非国民がやってきた!(229)ミーナ(1)】

 アフガニスタン――世界から置き去りにされ、見捨てられたこの国で、いまもなお人々が苦難にあえいでいます。

 アフガニスタン――ソ連軍侵攻、ムジャヒディン、タリバーン、北部同盟、ビン・ラディン、米軍によるアフガニスタン戦争、カルザイ政権――戦乱の続くこの国で、女性たち、子どもたちは、いまもなお貧困と圧制にうちひしがれています。

 カブール、ジャララバード、クンドゥズ、マザリシャリフ、カンダハル――数々の悲劇とともにしか語られることがなくなった乾いた大地に、人々の涙が静かに深く浸み込んでいます。

 かつてアフガニスタン四月革命の報を受け取った日本人は遥かな「文明の十字路」に希望の光を感知しましたが、「文明の十字路」が「野蛮の十字路」に変質するのに、さして長い時間を要しませんでした。

 いえ、「文明の十字路」と「野蛮の十字路」は別物ではなく、最初から、そして現在に至るまで、同じ一つの事象をさしていたのです。アフガニスタンに生まれ育った文明と、外から激流のように押し寄せた文明が激しくスパークする中で、文明が野蛮となり、野蛮が文明となりました。

 文明の輝きを代表するイスラームの改ざんが、21世紀のいまもなお続く女性差別の蒙昧となって、野蛮な現実を支配しています。文明の帰結である空爆という野蛮が、クラスター爆弾や劣化ウラン弾として姿を現し、無人戦闘機がこの国の空をわがもの顔に支配しています。

 戦争しか知らない子どもたちが駆け抜けるシャリナウ公園やベマル丘からもう一度、希望の物語を紡ぎだすために、人々は今日も命と暮しを重ね織りし、心のシェルターを探し求めているのです。

 こうしたアフガニスタンに鮮烈な輝きを残した一人の女性の人生を辿り直してみましょう。その名をミーナと言います。本名ではありません。女性の権利が否定され、抑圧された時代に、女性解放を求めて闘うことが命がけであったため、活動家名としてミーナと名乗りました。

 ミーナは1957年、カブールの中産階級の家庭に生まれました。フランスによる援助で設立されたリセ・マラライ(マラライ女子高)に通い、カブール大学に進学していますから、かなり恵まれた家庭だったと言って良いでしょう。

 経済的にも恵まれていましたが、精神的にも西欧民主主義や、自由と人権、そして女性の権利を学び、自らの思想として鍛えていくことのできる環境に育ちました。

 学生時代に、女性による女性のための女性団体としてアフガニスタン女性革命協会(RAWA)を創設し、女性の権利を求めて活動を開始したため、大学を卒業することなく運動圏に飛び込みました。いえ、運動圏などありませんでした。ミーナが運動圏をつくり出したと言った方が正しいでしょう。

 カブール大学に入学したのが1976年、RAWA創設が1977年――アフガニスタン四月革命の前年です。1979年にはソ連軍の侵攻があり、アフガニスタンは戦争と内戦のスパイラルに突入します。ミーナは1981年にRAWAを代表して欧州旅行に出るなど、各地で活躍しましたが、1987年2月4日に原理主義者によって拉致・殺害されました。

 30年に満たない短い生涯に、アフガニスタン女性の闘いの磁場をつくり出したミーナは、いま、数多くの「ミーナの娘たち」の闘いに無限の励ましを贈り続けています。

<参考文献>
メロディ・アーマチルド・チャビス『ミーナ――立ち上がるアフガニスタン女性』(耕文社、2005年)
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