2016年04月15日発行 1424号

【非国民がやってきた!(230)ミーナ(2)】

 ミーナは1957年、カブールのパルヴァン地区に生まれ育ちました。祖父の代からここに居住していたようです。パルヴァン地区は古くからの住宅地で、教師、政府の役人、専門家・技術者などが比較的多く住んでいたといいます。

 ミーナの父ラティフは技術大学で建築を学び、建築設計を業としていました。個人の家屋も設計しましたが、時に政府の建物を設計し、政府の仕事で地図の製作もしたということです。中産階級ということになるでしょう。もっとも、アフガニスタン史における中産階級という階級をどのように認定できるかは実際には難しいことです。

 民族的にはパシュトゥ人です。アフガニスタンはパシュトゥ人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人などから成る多民族国家です。パシュトゥ人が多数派で、政治的実権もパシュトゥ人が握ってきました。タジク人は北にあるタジキスタンの、ウズベク人はウズベキスタンの主流をなす民族で、アフガニスタンでは少数派です。ハザラ人はカブールより南西部――地理的にはアフガニスタン中央の山岳地に多い民族ですが、中国人や日本人と似た外見をしています。アフガニスタン中央に東アジア系とも思えるハザラ人がなぜ住んでいるのかは謎です。モンゴルがこの地域を支配した時期に移住してきたという説もあるそうです。

 ミーナの家庭はパルヴァン地区のごく普通の家庭でした。土壁で囲まれた中庭に面して住居があります。居間、台所、洗濯部屋、倉庫などは数家族で共有し、ニワトリやヤギを飼っていました。

 アフガンでは一夫多妻が公認されていました。ラティフには2人の妻がいて、1人目の妻には2人の息子がいました。2人目の妻ハニファの最初の子どもがミーナでした。下に7人の兄弟姉妹がいましたので、全部で10人兄弟です。ミーナは幼いころから弟妹の面倒を見たり、パン生地をたたく手伝いをしました。

 学校が好きで、勉強もよくできましたので、幼いころから両親はミーナを大学に行かせたいと考えていました。女子の大学進学率は極めて低かったのですが、首都カブールの中産階級が多く住むパルヴァン地区ならではのことです。

 12歳のころに好きだった作家がジャック・ロンドン(1876〜1916年)でした。ロンドンは20世紀初頭に活躍したアメリカの小説家で、『極北の地にて』『アメリカ放浪記』『アメリカ残酷物語』などがありますが、『荒野の呼び声(野生の呼び声)』と『白い牙』は特に有名です。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』に共鳴し、アメリカ社会党に入党した作家で、社会主義思想に立って、初期資本主義社会でのプランテーション農場主や工場主に批判的な小説を書きました。ミーナはロンドンの不正義の告発に深い印象を受けたといいます。

 ミーナはマラライ女子高(リセ・マラライ)に通いました。1919年にアフガニスタン・イギリス戦争が終わり、アフガニスタンが独立して以後、近代化政策がとられました。教育面では西欧の教育者を招いて学校設立が進められ、マラライ女子高は1921年にフランス人によって創立されました。

 マラライはアフガニスタンの歴史上もっとも有名な女性の名です。1880年、イギリスがアフガニスタンを攻撃してきた時に、マイバントの戦いで、劣勢となった部隊の先頭に立ち、旗を掲げて、古くから知られる部族の詩『ジャンディ』を歌って味方を鼓舞しました。銃撃で亡くなったマラライはアフガン解放戦争の国民的ヒロインとして語り継がれました。マラライ女子高の教師も生徒もこの名前に誇りを持っていました。

 ミーナが学校に通った1960年代はアフガニスタンの解放期――女性の就学や社会進出が急速に進展した時期です。1920年代の近代化政策後も女子就学率は伸び悩んでいました。市民的自由や政治的自由が実現し始めたのは1960年代といえます。ミーナの母親世代の就学率はまだ低いものでしたが、徐々に上昇し、この頃にはカブール大学が共学になりました。国営ラジオ放送に女性アナウンサーの声が流れ、アリアナ航空でも女性が働き始めました。1965年9月、アフガニスタン史上初の国会議員・男女平等選挙が実施され、ミーナの両親は人生で初めて一緒に投票しました。
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