2016年04月29日発行 1426号

【非国民がやってきた!(231)ミーナ(3)】

 1960年代、アフガニスタンの民主的改革が進みました。ザヒール・シャー王による「穏健な西欧型統治」のもとで、社会の近代化、女性の教育と社会参加が進み、1965年に史上初の国民投票が実施され、男女ともに投票しました。一定の政治的自由が認められたので、政治運動が活発となり、同年、アフガン人民民主党が結成されました。

 当時の政治状況について書かれたものを見ると、筆者の立場によって、まったく異なるアフガニスタンが描かれています。ザヒール・シャーについて開明的な君主とみるか、旧態依然たる支配者とみるか。女性の社会進出をどのように評価するか。イスラムと世俗世界の関係をどう見るか。

 カブール大学を中心とした青年たちの政治意識は、西欧型民主主義、ソ連型社会主義、中国の影響を受けた毛沢東主義など実に多様な立場に分かれています。「マルクス、毛沢東、ムハマッド(マホメット)」の3つのMが激しい潮流となり、衝突し合ったと書いている著作もよくあります。

 百家争鳴の政治闘争が行われた緊張と発展の時期と言えるかもしれませんし、政治的混乱期と見ることも可能かもしれません。民主化と解放を進めたザヒール・シャーでしたが、そのもとでダウード首相はさらに急進的になっていきました。このためイスラム勢力の反発が強まり、ザヒール・シャーはダウード首相を罷免せざるをえなくなりました。

 カブール大学が女子学生を受け入れ、新しい職業に就く女性が増えました。当時の写真を見ると、カブール市街をミニスカートの女性が闊歩しています。限られた写真だけから判断することはできませんが、1980年代以後の戦争と暗黒の時代とはまったく様相が異なることは間違いありません。

 1973年、ダウード元首相は親ソ派の人民民主党と連携してクーデタを敢行し、王制を廃止して、自から大統領となりました。ソ連、インド、サウジアラビアに支援を求め、対立する党派を弾圧しました。しかし、1978年、親ソ派は第2のクーデタに打って出て、ダウード大統領を暗殺しました。アフガン社会に粛清の嵐が吹き荒れ、夥しい知識人が殺されたと言われます。ここから現代アフガニスタンの悲劇が始まります。

 アフガニスタン4月革命をどのように評価するかは、いまなお激しい論争のあるところです。社会主義革命に希望を見出す立場からは「輝ける4月革命」となりますが、穏健な西欧型民主主義や毛沢東主義者たちは殺戮の対象とされました。イスラム勢力も政治舞台から追放されていきました。

 ミーナはこの時代に青春期を過ごしました。王制廃止クーデタの時に高校生だったミーナは、1976年、カブール大学に入学しました。

 カブール大学は論争の渦中でした。アフガニスタンの未来をめぐって大学生たちは懸命に考え、議論を戦わせ、行動していました。女子学生たちも理論を学び、教室で語り合いました。ただし、学内の政治組織は男子学生限定で、女子学生は入会できませんでした。

 ミーナは友人たちとともに西欧的な思考に学び、イスラムの教えも学び、抑圧からの解放としてのナショナリズムについて考えました。当時のアフガニスタンではナショナリズムの追求と解放は同じ方向を向いていたのです。

 ミーナが他の学生たちと違ったのは、女性の人権を主題として考えたことです。貧困に災いされて学ぶことのできない女性たち、学んでも社会的に差別される女性たちの現実を踏まえて、女性の人権を実現する方法を求めて、ミーナはフランスやイギリスなど西欧諸国の法制度も学びました。

 高校時代の友人の多くは家族や親戚が決めた男性と結婚し、土壁の内側の伝統的家族の一員になって行きました。ミーナは親戚が勧めるお見合いを断り、学び続けることを選びました。

 そして、叔母の紹介で出会った医師ファイズと協議して、単に家事に専念する伝統的な妻ではなく、政治や社会に目を向け、学び続ける、自分の目標を追い続けることを認めることを許すという約束を交わしました。ファイズ自身、毛沢東派と言われたアフガン解放機構(ALO)のリーダーでした。ミーナとファイズは、アフガニスタンの政治的解放と、女性の政治的社会的解放を結び付けて考えることで一致しました。ファイズは医師として活動家として、ミーナは学生として妻として、それぞれ役割分担をしながら、ともに暮らし始めました。
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