2016年06月03日発行 1430号

【坂井美穂のじゃらんじゃらんinインドネシア/現地報告番外編 ブカンバルの歴史の証人】

 みなさんこんにちは。今回は、機会に恵まれ私が同行した現地調査について、何回かに分けてお話したいと思います。

 私は現在西スマトラ州パダンに滞在していますが、パダンはもともとオランダ植民地時代より開かれた大きな街で、インド洋に面し港湾都市としても栄えました。主にスマトラ中部では石炭など天然資源が豊富で、採掘した天然資源を港へ運ぶため、鉄道の整備がなされました。パダンを起点として、スマトラ島の西海岸側であるブキティンギ、パヤクンブまでの路線と、島中部の石炭の産地とが結ばれたのが、19世紀末です。

 オランダは、西海岸と東海岸を結ぶ、島を横断するルートも構想していたようですが、構想のみで終わりました。

 そこに目をつけたのが、1942年3月にオランダから主権委譲された日本軍です。スマトラ一帯を管轄していた第25軍は、高原都市であるブキティンギに陸軍司令部を設置しました。しかし、当時、西海岸側はすでに連合軍によって厳しい防衛戦が張られていたので、物資・人的資源の輸送などには、東海岸側へ抜け、海路で南方戦線司令部のマレー半島へ届けるルートが必要とされました。

 そこで、1944年5月頃から、島中部と大きな河川港湾都市であるプカンバルをつなぐ、新しい路線が日本軍によって建設されることとなったのです(完成した頃は終戦でした)。

 この鉄道建設には、たくさんのロームシャ(労務者、強制労働の被害者)が動員されたと言われています。しかし、正確な数は分かりません。現地の人だけでなく、ジャワなどからも強制的に連行され、ろくな食べ物も支給されないままひたすら働かされました。骨と皮になり、病気や疲労、飢えで動けなくなった人は見殺しにされました。その犠牲者を追悼し英雄として顕彰する碑と、生き延びて亡くなったロームシャの墓、そして当時使用された蒸気機関車が、歴史の証人としてプカンバルの街中にたたずんでいるのです。

 坂井美穂(アンダラス大学人文学部招聘教員)

 
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