2016年06月17日発行 1432号

【非国民がやってきた!(234)ミーナ(6)】

 1981年、フランスにミッテラン社会主義政権が成立しました。西欧世界で、ソ連東欧圏とは異なる「人間の顔をした社会主義」が語られた時代です。

 フランス社会党は、国際社会党大会にRAWAの代表を招きました。ソ連の傀儡政権から命を狙われていたRAWAに、フランス社会党が渡航費を提供して、国際社会党大会での発言を求めたのです。

 ミーナはパスポートを持っていませんでした。アフガニスタン政権からパスポートを発行してもらうことは不可能でしたので、やむを得ず偽造パスポートで西欧への旅に出ました。カブールからパキスタン国境へ危険な道のりを越えて、パキスタンからインドへ渡り、生まれて初めて飛行機に乗ってパリにたどり着きました。

 自由で清潔で、戦争のないパリ、街を歩いても逮捕される恐れのないパリに感激したミーナは、1981年10月、ヴァレンスで開催された国際社会党大会に「アフガニスタン・レジスタンス代表」として列席しました。

 国際社会党大会には世界各地の社会主義者が集まりました。ソ連代表団団長はボリス・ポノマリョフでした。1955年から外務省長官の座にあり、ソ連のアフガニスタン侵略を統括した人物です。中国共産党も代表を送り込んでいましたので、ソ連と中国の対立に注目が集まりました。

 しかし同時に、そこにはソ連と、小国アフガニスタンの女性たちがつくったRAWAとの対立も存在しました。あまりにもアンバランスな対立構図です。社会主義国家は正義であり、国際連帯の精神に貫かれているので、他国を侵略することはありえないと考えられていました。社会主義者は西欧諸国の植民地政策に対する民族解放闘争を支持すると語られていました。そうした場で、ミーナは、社会主義のソ連による侵略を告発しなければなりませんでした。

 ミーナはアフガニスタンの現状から始めました。女性たちの苦難にとどまらず、老人も、若者も、男も女も命がけで侵略者と闘っている現実を紹介しました。何千もの愛国者が獄中に捕らわれ、処刑され、拷問されている現実を突きつけたのです。

 「彼らは犠牲者の耳、舌、そして性器に電気ショックを当てることをためらいません。そして手足の指の爪をはがします。女性が自白しなければ、夫を連れてきて、夫の前で彼女を強姦するのです。」

 ミーナはレジスタンスの必然性と正当性を主張し、闘争はソ連を撤退させるまで終わらないと断言しました。

 演説後に高々と「勝利」のVサインするミーナの写真が残されています。

 ミーナはフランスに数週間滞在し、モーロワ首相や、フランス社会党書記長らと面談しました。さらにドイツ、ベルギー、オランダ、ノルウェーも訪れました。1982年1月19日、ドイツの『ハンブルク・アーベントブラット』に記事と写真が掲載されました。ブリュッセル・テレビ局のインタヴュー映像も残されています。

 「現在のところ適当な国民戦線は存在せず、99%以上のアフガン人は散り散りばらばらにロシアと戦っています。……しかしながら、国内には政治的な利益のために、この国民運動に亀裂を入れようとする人たちがいます。こういったアフガニスタンの狂信者たちは現在ペシャワルにいて、アフガニスタンにホメイニのような政治体制を持つことを望んでいるのです。」

 1982年6月、ミーナは8カ月の旅を終えてパキスタンに戻りました。ミーナの西欧旅行は、アフガニスタンの現実を知らせる目的という点では大成功でした。『女たちの声』4号(1982年)には、ミーナのヴァレンス大会参加・発言報告や、難民キャンプで取材したノルウェー女性によるルポが掲載されています。

 しかし、国際社会党大会やメディアで顔をさらしたことが、後にミーナの生命を縮める悲劇につながったと考えられています。

 1982年夏、ミーナはカブールに帰りましたが、ミーナの指名手配が始まっていました。ソ連のKGBの指導下にあったアフガニスタン情報部KHADが兵士たちにミーナの写真を配布し、幹線道路の検問所で監視を行っていました。82年10月、ミーナはカブールからパキスタンに逃げざるを得ませんでした。夫のファイズも、RAWAの主要メンバーもパキスタンに亡命しました。
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