2016年07月01日発行 1434号

【非国民がやってきた!(235)ミーナ(7)】

 ソ連による侵略以後、アフガニスタンは暗黒の時代を迎えました。

 四半世紀に及ぶ戦争と内戦に見舞われ、ムジャヒディンたちがソ連と闘ったかと思うと、内輪もめで互いに殺し合い、悲惨な内戦と難民の時代を迎えました。続いてタリバーンが権力を握って恐怖政治を敷きました。9.11以後のアメリカによるアフガニスタン戦争で人々は逃げまどいました。戦争終結後も首都カブールは政府が掌握しているものの、各地は軍閥その他の勢力が跋扈しています。

 アフガニスタン難民はイランやパキスタンに逃れました。パキスタン北西辺境州はアフガニスタンの最大の民族であるパシュトゥ人の居住地でしたから、多くの難民がぺシャワール周辺に難民キャンプを作って、長年にわたって居住することになりました。

 アフガニスタンから亡命したミーナも最初はペシャワールにたどり着きましたが、ペシャワール周辺は内戦時のムジャヒディンたちが勢力を競い合っている状況で、危険な場所でした。そこでミーナはクエッタに移りました。大都市クエッタの周辺地域にアフガニスタン難民の貧しいキャンプが広がっていました。

 1983年、RAWAは100人ほどのメンバーでした。RAWAは欧米の支援団体に資金援助を受けて、難民キャンプで女性のための読み書き教室、裁縫教室を開きました。裁縫教室の収入がRAWAと女性たちの活動を支えるようになりました。

 そこで、RAWAは子どもたちのための「ワタン学校」をつくりました。ワタンとは故郷という意味です。ワタン学校は男子学校と女子学校を設置しました。ワタン学校では民主主義とアフガニスタンの歴史を教えました。

 このためRAWAはイスラム原理主義者から攻撃されました。イスラム原理主義者は反民主主義的で女性差別的で、女性が教育を受けることに反対しました。原理主義者たちの学校マドラサでは生徒に『コーラン』を丸暗記させ、女性差別思想を教え込んでいました。RAWAは民主主義と女性の権利を唱えたため、イスラム原理主義者から敵とみなされ、嫌がらせ、攻撃の対象とされました。

 原理主義は、もともとアメリカにおける過激なキリスト教の宗派を現わす言葉でした。

 しかし、今日、イスラム原理主義が国際的に広まっています。かつて西欧世界(キリスト教諸国)による植民地支配を受けたイスラム地域に、アフガニスタン戦争とイラク戦争以来、ふたたび西欧世界による軍事攻撃が続きました。欧米諸国におけるイスラム教徒に対する差別も激しくなりました。イスラモフォビア(イスラム嫌悪)が世界に浸透しています。これに対する反発からイスラム原理主義が興隆してきたのです。

 アフガニスタンにおけるイスラム原理主義にはもっと長い歴史がありますが、今日のイスラム原理主義とのつながりも見られます。イスラム原理主義は「文明の衝突」を戯画化し、極端に政治化しました。『コーラン』の政治主義的解釈を展開し、そのもとで女性に対する抑圧を大きな特徴とするようになりました。

 1986年、RAWAはペシャワール北部にも活動を広げて、子どもの家や裁縫教室を開きました。さらに、クエッタにマラライ病院を開設して、女性や子どもたちの診療、出産、地雷等の被害者の治療を行いました。それ以前から移動診療チームを運営していましたが、病院施設がありませんでした。国際的な支援によって、医師や看護師など医療スタッフ、院内の家具などもそろえました。

 しかし、1986年11月、ペシャワールにいたファイズが、原理主義者の「イスラム協会」メンバーによって殺されてしまいました。悲しみに沈んだミーナですが、喪が明けるとふたたびRAWAの活動に専念しました。

 ところが、1987年2月4日、今度はミーナが失踪しました。午後にミーナが来るはずだった裁縫店にミーナはやって来ませんでした。RAWAメンバーは懸命にミーナを探しましたが、ミーナもボディガードも行方が知れなくなったのです。

<参考文献>
アフガニスタン国際戦犯民衆法廷実行委員会『声なき者の声――アフガニスタン女性革命協会』(耕文社、2004年)
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