2016年07月01日発行 1434号

【「恨(ハン)之碑」10周年追悼会/被害と加害を見据える沖縄/新たな希望と平和へ/日本製鉄元徴用工裁判を支援する会 中田光信】

 1997年沖縄で開催された全交大会に参加した姜仁昌(カンインチャン)さん(2012年死去)は、44年に韓国の山あいの村、慶尚北道英陽(ヨンヤン)郡から釜山〜下関〜鹿児島〜沖縄本島を経て、最後に慶良間諸島の阿嘉島へ軍属として配属された。那覇大空襲、過酷な強制労働、日本兵による仲間の処刑、米軍の上陸、捕虜として投降、そして解放を迎えた自らの衝撃的な体験を全交で語った。

 この証言を機に、過酷な体験を記憶し伝えるための碑の建立が計画され、99年8月「太平洋戦争・沖縄戦被徴発者恨之碑」が姜仁昌さんの故郷である英陽郡に建立された。その後沖縄に碑を建立するため「太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑の会」(共同代表―平良修、安里英子、有銘政夫)が結成され、06年5月、読谷村瀬名波の高台に碑が建立された。除幕式に来沖した姜仁昌さんは、携えてきた2815名の朝鮮人軍夫の名簿を碑に供えた。

記憶の継承

 そしてちょうど10年目の今年6月11日、記念の追悼会が読谷村で開催された。

 韓国からは太平洋戦争犠牲者補償推進協議会共同代表の李熙子(イヒジャ)さん、姜仁昌さんの遺族カン・シニョンさんらが来沖。李熙子さんが「恨をかかえて希望を語る」と題して記念講演。姜仁昌さんの足跡をたどりながら「沖縄のみなさんの協力がなければ碑の建立は実現できなかった。朝鮮人軍夫らの痕跡を記憶し将来に残していくため植民地歴史博物館の建設に取り組んでいる。次世代に記憶を継承していかなければならない」と訴えた。

 恨之碑の作者である金城実さんは「元『慰安婦』など日本の植民地支配下の人道的犯罪の犠牲者をいかに記憶し継承するかという『記憶の芸術』国際シンポジウム(ソウル)に参加した。その時『平和の碑(少女像)』の前で座り込む若者たちと辺野古のゲート前で座り込むおばあたちの姿が重なって見えた」と切り出した。「グンター・デムニッヒという芸術家は、ホロコーストを記憶するため犠牲者が最後に住んでいた場所にその名前、生年、死亡年などを刻んだ10センチ四方のプレート『躓(つまず)きの石』をドイツの各都市・ヨーロッパ各地の街角に数千枚埋め込み、日常の中に過去の犠牲者を記憶する努力をしている。民衆と繋がらない芸術作品は意味がない。しかし今、ヘイトスピーチが横行する日本において、恨之碑は単なるモニュメントになってしまい沖縄の民衆とつながっているとは言えない」と厳しい言葉が述べられた。

恨≠希望に

 共同代表の平良修牧師は「ハングルで言う恨とは、恨み、つらみやそれにつながる復讐という概念ではない。自ら受けた苦しみや傷を心の底に深く刻み込み、そしてそれを乗り越えバネにして新しい共生の道を探る未来志向の思想を表す言葉だ。錆びた鉄は鍛えられて燻銀(いぶしぎん)のごとく輝きを発する。恨とは究極のところ『希望』である。燻銀に輝く存在、それが恨之碑だ。痛み・苦しみを乗り越えようという思想が根底にあることを忘れてはならない。恨を抱きながら友となろうとする被害者の血の滲む努力に私たちは応えなければならない。ここに新しい平和の可能性がある」と恨之碑建立の意義を明快に述べた。

 やはり沖縄、最後は海勢頭豊さんの『月桃』をみんなで合唱。『琉球讃歌』に合わせて金城さんが舞う「ゲタ踊り」に誘われ知花昌一さんらも加わったカチャーシーで賑やかに追悼会を締めくくった。

 そして今回「NPO法人沖縄恨之碑の会」事務局長に選出されたのは、辺野古ゲート前の座り込みリーダーでもある上間芳子さん。米軍基地と70年間向き合い、戦争の被害と加害の両面を見据えて闘う沖縄の反戦平和の闘いの懐の深さを改めて感じとることができた追悼会だった。





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