2016年07月15日発行 1436号

【非国民がやってきた!(236)ミーナ(8)】

 1987年2月4日、ミーナが失踪しました。運転手とボディーガードも行方不明となりました。

 当時、RAWAはクエッタに2つの電話を持っていましたが、1つはミーナの自宅にありました。RAWAメンバーは何度も電話しましたが反応がありません。何が起きているかわからないため訪問することもできません。RAWAメンバーは情報交換を繰り返した末、クエッタにもペシャワルにもミーナがいないことを確認しました。

 ミーナはイスラム原理主義者の手に落ちたのではないか。パキスタン警察に身柄拘束されたのではないか。さまざまな可能性を推測しながら、メンバーたちはミーナや運転手たちの行方を探し求めましたが、ついに見つかりませんでした。そこでメンバーたちはそれぞれの隠れ場所に閉じこもり、見られるとまずい書類を焼却しました。『女たちの声』や初期のビラも処分しました。初期のRAWAの重要な資料がなくなってしまいました。

 組織の危機に怯えRAWAを抜けて欧州に行ってしまうメンバーも出始めました。RAWAの立て直しが迫られました。ミーナ失踪を受けて組織の活動原則を見直す必要がありました。マラライ病院の開設も間近でした。女性たちは「マラライ病院はミーナのモニュメント」と、懸命に開業にこぎつけました。

 1987年8月、パキスタンの新聞記事に悲しいニュースを見つけました。アフガニスタンからパキスタンへの国境で爆発物所持の容疑で逮捕された2人の男性が、ミーナと運転手たちを殺害したと自白したのです。犯行はクエッタの空き家で行われ、男たちは庭に穴を掘って3つの遺体を埋めました。犯行者たちは通訳としてRAWAに協力してきた男性でした。犯行理由の詳細は不明ですが、男たちはイスラム原理主義者からミーナ殺害を依頼されたのでしょう。

 RAWAメンバーはミーナの遺体を引き取るために警察に行きました。しかし、掘り返した遺体は引取り人のいない遺体として、当局によってすでに埋葬されていました。遺体の指にはめられていた指輪が証拠品として保管されていました。それはミーナがいつもはめていた銀の結婚指輪でした。

 犯行者たちは爆発物所持の罪に問われて投獄されました。しかし、ミーナ殺害が裁判にかけられることはありません。イスラム法では女性の権利を認めていないからです。ミーナはアフガニスタンからの亡命女性です。しかも、イスラム原理主義に対抗していたRAWAの創設者です。ミーナ殺害が判明するとイスラム原理主義者たちは喜んで快哉を叫んだのです。

 崩壊の危機に瀕したRAWAは組織再編を余儀なくされました。外部の男性に通訳を依頼し、内部に招き入れたことが失敗でした。これ以後、RAWAはいっそう用心深くなりました。RAWAの学校で学んだ男性以外の者を雇い入れることは危険だからです。女性たちのネットワークに出入りできるのはRAWAの学校出身者に限ることにしました。

 「ミーナが死んだからといって、私たちの原則を放棄するわけにはいかないわ。原理主義者やソ連の傀儡に反対する私たちの声が小さかったなら、ミーナは今もなお私たちのそばにいるでしょう。でも、私たちは、彼女が命をかけた理想を求め続けていかなければ」。

 「RAWAの主目的は最初から、すべての者の自由、民主主義、そして社会的正義だった。信念を話すことを恐れることはまったくないわ。ミーナは私たちに声を大にする勇気を与えてくれたのだから、今こそそうするべきだわ」。

 『女たちの声』にミーナの死を伝えるニュースを掲載し、マラライ病院に医者、看護師、診察室、X線技師、薬剤師をそろえました。RAWAの学校ではアフガニスタンの歴史、言語、文化、そして英語、政治的民主主義、女性の権利を教えました。崩壊の危機を乗り越えることができたのは、ミーナの励ましと、アフガニスタンの厳しい現実への怒りでした。

 1957年生まれのミーナは、カブール大学時代に女性の権利を求めて活動を始め、1977年にRAWAを設立しました。アフガニスタン・フェミニズムの輝きは10年に満たないミーナの闘いに始まり、他の諸国では考えられない戦争とイスラム原理主義による女性抑圧との闘いとして継続され、今日に至っています。

<参考文献>
アフガニスタン国際戦犯民衆法廷実行委員会編『アフガニスタンの戦争犯罪』(耕文社、2004年)
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