2016年09月02日発行 1442号

【非国民がやってきた!(239)ジョン・レノン(2)】

 1946年10月9日、リバプールでアルフレッド・レノンとジュリアの間に男の子が生まれ、ジョン・ウィンストン・レノンと名付けられました。

 船のウエイターをしていたアルフレッドは航海中だったため、ジュリアは一人で息子を生み、伯母ミミがジョンという名をつけました。ウィンストンは当時のウィンストン・チャーチル首相にちなんでつけたと言います。

 息子が生まれたのにアルフレッドは航海に出たまま音沙汰がありません。ジュリアは別の男性とくらし始め、ジョンは伯母ミミのもとに引き取られました。伯母ミミとその夫のジョージ・スミスは比較的裕福な家庭が多い地域に住んでいました。ウールトンのメンローブ通りがジョンの幼少時代のフィールドになりました。両親と離れ離れになりましたが、経済的に貧しくはなく、ミミの愛情に恵まれて成長しました。後年、ジョンは自分から去っていった母親のことを代表曲の一つ「Mother」に歌うことになります。

 『不思議の国のアリス』をはじめ本の虫だったジョンは、小学校時代にすでに自分は天才であるという不遜な考えの持ち主で、読書と水彩画に没頭しました。

 5歳の時、行方不明だった父アルフレッドが戻って来て一時期ジョンを連れ出しトラブルになりましたが、ジュリアが駆けつけてジョンを取り戻し、ふたたびミミの家で暮らしました。

 音楽との出会いはハーモニカでした。どこにもハーモニカを持ち歩いて得意げに吹いていたようです。

 1952年、中学生になったジョンは、読書、音楽、絵、そして喧嘩に励みました。いささか素行の悪い少年となっていました。成績不良で落第確実でしたが、ジュリアが買ってくれたバンジョーに熱中しました。バディ・ホリーの「That’ll Be The Day」は生涯のお気に入りになりました。そして、エルビス・プレスリーの「Heartbreak Hotel」に衝撃を受け、エルビスの真似をしながらロックン・ローラーへの道を歩み始めます。

 1957年3月、ジョンは仲間とクオリーメンというバンドを結成しました。パーティ会場で演奏し、TVオーディション予選にも出場しました。7月、ウールトン教会でステージに立った日、ポール・マッカートニーがやってきました。音楽の才能豊かなポールにほれ込んだジョンは、ポールをメンバーに加えました。やがて、ポールの知り合いだったジョージ・ハリスンが加入し、ジョン、ポール、ジョージがそろいます。

 しかし、1958年7月、母ジュリアが交通事故で亡くなりました。幼年時代は母に捨てられたジョンでしたが、成長するにつれジュリアとはまるで姉と弟のように接していました。「俺は母を2度も失った」と嘆くジョンをなぐさめたのは、すでに母を癌で亡くしていたポールでした。天才ジョンとポールには母を亡くした共通点からの同志意識も生まれました。

 クオリーメンは他のミュージシャンのバックバンドとして演奏し、ツアーに出ながら力をつけ、1960年、ドラムにピート・ベストを加え、バンド名をビートルズに改めて、いまや伝説のハンブルク・ツアーに出ました。やがてリバプールで指折りの人気バンドになり、1962年、ピート・ベストが抜けて、リバプールNo.1のドラマーと言われたリンゴ・スターを迎え、全英のスター・バンドに飛躍的に変貌していきます。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴのビートルズです。

 1962年10月、デヴュー曲「Love Me Do」に続いて、63年1月発売の「Please Please Me」が全英ヒットチャート1位に駆け上り、「I Want To Hold Your Hand」「Can't Buy Me Love」「A Hard Day's Night」と、チャート1位を独占する快進撃でした。

 ラブソングを中心としたポップ・グループでしたが、自作を前面に出してミュージシャンが自らのメッセージを伝え、そのためにレコード会社を設立し、サウンドづくりに徹底した配慮を重ね、常に挑戦し続けたビートルズを先頭に、リバプール・サウンドが世界を席巻しました。

 後に音楽革命と言われることになります。リズムや歌詞の新しさに焦点が当てられることが多いのですが、バンドの組織形態、運営方法や、シングルのみならずアルバムに精力をつぎ込んで独自の世界を確立したこと、映画出演も含めて総合的なアーティストとしての活動スタイルを作り出したことが重要です。

 ジョンの革命は音楽革命から始まったのです。
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