2016年09月02日発行 1442号

【民衆はどう描かれたか/『ゴジラ』にはあって『シン・ゴジラ』にないもの】

 本格怪獣映画として観た場合、『シン・ゴジラ』はよくできている。製作費がハリウッド版ゴジラの10分の1しかなくても、面白さでは完勝と言ってよい。過去作品、特に多くの怪獣映画を手掛けた本多猪四郎(いしろう)監督をリスペクトした絵作りもマニア心をくすぐる。

 だが、『シン・ゴジラ』は本多作品と決定的な違いがある。それは民衆の描き方だ。ドキュメンタリー的と言われる本多演出は、怪獣の被害を受けた民衆の姿を実に丁寧に描写していた。たとえば、第1作の『ゴジラ』では、炎上する銀座松坂屋の軒下で幼い子を抱えて震える女性の姿が突然映し出される。「ね、もうすぐお父ちゃまのところに行くのよ」。明らかに戦争遺族のイメージである。

 怪獣プロレスがメインの映画でも、避難した人びとが「これで村は全滅だ」と嘆き悲しむ描写(脚本にはない)を忘れない(『三大怪獣 地球最大の決戦』)。このような姿勢は、都合3回召集され中国戦線で8年半を過ごした自身の戦争体験からきている。

 「一番の被害者は民衆なんだね。…タンクが来たって大砲が来たって、自分の国の軍隊が来たって、畑を荒らされたらね、喜べない。とにかく戦争で一番困るのは大衆なんだな」「民衆のいない怪獣映画なんてのは、僕は嘘だと思う」「政治家や行政官だけが『ああやった、こうやった』と描いても観客の心理に隙間風が吹くと思うんですよ」(東宝SFシリーズVOL3所収インタビューより)

 では、『シン・ゴジラ』はどうか。民衆の顔はほとんどみえない。「避難とは、住民に生活を根こそぎ捨てさせることだ。簡単に言わないでほしい」というセリフがあるにはあるが、それを語るのは首相臨時代理である。民衆は「物言わぬ避難者」でしかない。

 そもそも、劇中で活躍するのは政治家、官僚、自衛隊ばかり。国会に押し寄せたデモ隊を「無責任な烏合の衆」的にとらえた描写すらある。『シン・ゴジラ』はまさに「政治家や行政官だけが『ああやった、こうやった』と描い」た映画なのだ。その視点は徹頭徹尾、国家の側にある。

 本多監督は生前「戦争なんてのは、映画で描けるようなもんじゃない。もっとすごいものだ」と語っていたという(切通理作著『本多猪四郎 無冠の巨匠』)。政治家や自衛隊をヒーロー視する映画にしてしまうと、間違った戦争のイメージを観客(特に子どもたち)に刷り込み、ナショナリズムや軍国主義を鼓吹することにならないか−−。彼の脳裏にはそのような心配が常にあったと思うのだ。

 戦争の記憶がいよいよ社会から消えつつある今、自衛隊を「この国を守る最後の砦」と称える怪獣映画が登場し、しかも熱く支持されている。批評家の杉田俊介が指摘するように、『シン・ゴジラ』は「ニュータイプの国策映画」といえるのではないか。  (O)
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