2016年09月16日発行 1444号

【非国民がやってきた!(240)ジョン・レノン(3)】

 全英・全米を制覇して絶頂期にあったビートルズですが、ジョンにとってはストレスの募る時期でもありました。

 天才ポールとの合作、競作、そして演奏活動はますます充実し、ミュージシャンとして意欲的な挑戦が続きましたが、他方ではトップ・アイドルを「演じる」必要もあり、自分らしさを「隠す」ことに疲れを覚えることもありました。

 スーパースターになったことで、個人の自由が消えてしまい、平穏な家庭生活も遠のきました。

 敏腕マネージャーのブライン・エプスタインは、政治的発言を禁止しました。

 1966年3月のキリスト発言問題では、全米のキリスト者に猛烈な反感を持たれたこともあって、ブライアンとしては、ビートルズ・メンバーの政治的発言は影響が大きすぎると考え、禁止せざるをえなかったのでしょう。

 しかし、こうした制約によって、ジョンはアーティストとしての独自性が制約され、創造力も失われたと感じるようになりました。

 ビートルズのアルバムとしては、ギター・バンドとしての本領を発揮した『The Beatles』(1968年)、続いて『Yellow Submarine』(1969年)、『Abbey Road』(1969年)、『Let It Be』(1970年)と傑作を送り出しましたが、バンドとしての活動は実質的に失われ、ついにビートルズは1970年に解散を迎えました。

 転機がオノ・ヨーコとの出会いだったことはよく知られています。

 1966年11月、知人のジョン・ダンバーが経営するロンドンのインディカ画廊で、日本人女性アーティストの『未完成絵画とオブジェ』という個展が開かれました。前衛芸術という言葉が煌き始めた時期のことです。

 個性的な日本女性ヨーコの噂を耳にしたジョンが画廊を訪れました。

 台の上にリンゴが1個置いてあり、200ポンドという高額の札が付けられていて、「リンゴが徐々に腐っていく様子を観察しなさい」と書いてありました。奇抜なアイデアとユーモアが、気に入りました。

 階段を上って壁に釘を打ち込む、という作品がありました。5シリング払えば釘を打つことができます。釘を打ってもいいかと尋ねるジョンに、個展がまだ始まっていないからダメだと答えたのがヨーコでした。もっとも、ジョンはカードで買い物をしていたので、現金をまったく持っていなかったそうです。

 さらに、「天井の絵」という作品がありました。白い脚立に上ると、天井に取り付けられた黒いキャンバスに、小さな虫メガネがつるされていて、メガネを除くと「YES」と書いてありました。

 前衛芸術は反権力、反権威であり、反芸術、反体制を唱えていましたから、NOというメッセージを発することが多かったのに、ヨーコのメッセージはYESでした。このことがジョンを惹き付ける一因となったと推測されています。

 ヨーコが差し出した名刺には「呼吸しなさい」と書いてありました。「感動のあまり口も利けなかった」というジョンは、自由に発言してよいということをヨーコから改めて教えられたのです。女性観、そして人間観が変わっていくことになります。

 スターダムをのし上がりながらストレスを抱えていたジョンにとって、ヨーコのアイデアとユーモアは心安らぐものでした。しかもヨーコのメッセージは、ジョンに進むべき方向性を示してくれるものでした。美術学校に通っていた頃から、アーティストの女性との出会いと暮らしを願っていたジョンは、ヨーコに恋人、母親、同志を見たのです。

 ヨーコ自身、ジョンが悩みを抱えて、ひとつの転換点にさしかかっていたので、お互いに魅き付け合うことになったと語っています。
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