2016年09月30日発行 1446号

【非国民がやってきた!(241)ジョン・レノン(4)】

 ヨーコ・オノ(小野洋子)は、1933年2月18日、銀行家の小野英輔と磯子のもとに東京府(現:東京都)で生まれました。20歳の時に家族とともに父親の赴任先であるニューヨークに移り住み、サラ・ローレンス大学に入学して音楽と詩を学びました。1956年に作曲家の一柳慧と出会い、大学を退学して結婚し、前衛芸術活動を開始しました。1959年、前衛芸術集団フルクサスとともに活動を行うようになりました。当時の代表作は、床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成するコンセプチュアル・アート作品『踏まれるための絵画』です。カーネギー・ホールで前衛音楽のパフォーマンスも行いました。ニューヨークと日本で活動しましたが、前衛芸術がまだ知られていなかった日本ではほとんど理解も評価もされませんでした。

 1962年、ジャズミュージシャンで映像作家のアンソニー・コックスと出会い、一柳と離婚して、1963年にコックスと結婚しました。ところが、ヨーコは1966年、ロンドンの現代芸術協会の招きで渡英し、それを契機として活動の場をロンドンに移し、ジョンと出会い、1969年にコックスと離婚しました。

 1967年、ジョンのサポートによりロンドンのリッスン・ギャラリーで、すべてのオブジェが半分の形で展示された個展『ハーフ・ア・ウィンド・ショー』を行いました。二人はその後、前衛的な音楽活動やパフォーマンスを行うようになり、1968年に前衛アルバム『「未完成」作品第1番:トゥー・ヴァージンズ』や前衛パフォーマンス『ドングリ・イヴェント』を発表しました。

 ジョンが日本人女性のヨーコと親密であることが知られると、イギリスではヨーコに対する非難が巻き起こったと言います。1970年にビートルズが解散すると、原因を作ったのはヨーコだと激しい非難が起きました。日本人女性であることと、前衛芸術運動のため奇矯な言動をしていると見られたことから、ヨーコは社会的非難を一身に集めました。

 ジョンとヨーコの平和運動は1969年の結婚から始まります。2人は1969年3月20日にジブラルタルで結婚しました。当時、ヴェトナム戦争が激化し、アメリカ内部でも反戦運動が始まっていました。ジョンとヨーコは、平和イベント『ベッド・イン』や巨大広告を用いた『戦争は終わった(War Is Over, If you want it)』ポスター・キャンペーンなど、独自の「愛と平和(Love and Peace)」の活動を展開しました。

 ヴェトナム戦争に対して、ボブ・ディランやピーター・ポール・アンド・マリーなどポップミュージシャンの反戦ソングがアメリカに響いていました。ジョンとヨーコもそこに加わったと言えますが、2人は歌うだけではなく、さまざまなパフォーマンスを行いながら反戦運動に突入していきました。

 1969年、2人は音楽ユニットとしてプラスティック・オノ・バンドを結成し、同年12月にトロントでのライブアルバム『平和の祈りをこめて』("Live Peace In Toronto 1969")を発表しました。続いて1970年12月にヨーコのファースト・アルバム『ヨーコの心』、1971年3月にセカンド・アルバム『フライ』を発表しました。

 前衛芸術家としてのヨーコは、フルクサスの創立者ジョージ・マチューナス、音楽家のジョン・ケージの影響を受けながら、コンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アートを開拓していきました。その時期に思想的にはジャン・ポール=サルトルの実存主義の影響も強く受けたと言います。

 初期の代表作に『グレープフルーツ』(1964年)があります。超現実的で、禅問答にも通じる命令口調の言葉が並び、読み手の創造力/想像力の中で完成するというアート作品です。例えば「みんな家に帰るまで隠れなさい。みんなあなたのことを忘れるまで隠れなさい。みんな死ぬまで隠れなさい」。こうした言葉によるアートであるこの作品は何度も出版されました。その後のヨーコの多くの展示会もこれに基づいたものが多いと言います。

 「世界で最も有名な無名アーティスト。誰もが彼女の名前を知っているが誰も彼女のしていることを知らない」とジョンが語ったように、ジョンと一緒になって以後のヨーコは、ジョンのパートナーとしての側面に圧倒的に光が当てられていますが、前衛芸術の世界で独立したアーティストとして高い評価を受けていました。

<参考文献>
『ただの私(あたし)』(講談社文庫、1990年)
『グレープフルーツ・ジュース』(講談社文庫、1998年)
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