2016年09月30日発行 1446号

【ウチナーびけん 落ちこぼれ平和ガイドがゆく!!(3)】

 思えば私の「乗車ガイド」のデビューは突然だった。

 沖縄戦の時、足腰立つ者すべて日本軍に協力させられたことで「根こそぎ動員」と言われている。私のガイドデビューの時も、その日のガイド件数が異様に多くガイドが足りないからと、まさに「根こそぎ動員」よろしく半強制的にメンツに組み込まれてしまったのである。

 ガイド対象は、これまで研修してきた中高生ではなく大人(若い人)の団体で、そういう意味では今から考えてみればハードルも低いのであるが、当時の私にはそんなことは到底理解できないのである。

 まずはガイドプランである。行程表から移動時間を割り出し、ココからココまでの間にこういう話を車内でする、という計画を立てる。そして話す練習もする。練習は聴いてくれる相手がいればかなりラッキーであるが、大抵が相手もなく虚しく独りで行われる。当時住んでいたアパートはカベが薄く、隣に住んでいた人は私のガイドの練習の度に隣から響くお経のような何だか判らない怪しい語りを不審に思い恐れおののいて聞いていたに違いない。

 大抵の乗車ガイドはホテルか空港がスタートである。が、このデビュー戦の時は違っていて、某会館で戦争体験者の講演を全体で聴いて、それからそれぞれバスに乗り込んで出発する、という行程だった。この講演者というのが、これまた話が長くて時間を平気で大幅に押すことで有名な某氏だったため、私は時計を睨(にら)んでは焦りを隠すことができないでいた。

 かくしてバスは時間を大幅に遅れて出発することになってしまった。もうここまでくると行程もむちゃくちゃになり、特に「昼食時間」は先方の都合もあって変更不可能なため、行程を入れ替えたり、資料館などの見学時間の短縮を余儀なくされてしまったのであった。乗車デビューの私はとにかくパニックに陥った。アタマの中では見学地と時間と数字がぐるぐる回って、しかし泣くわけにもいかず、平静を装うのに必死であった。

 それにしても不幸(?)は重なるもので、その日私は生理が来ていた。トイレに行くタイミングが読めないのである。男性諸氏には理解できないと思うが、この緊張感と不快感は女子にしか解らないだろう。おまけに雨が落ちてきて、みるみるうちに本降りになってしまった。資料館で合流したガイド同士で「平和の礎(いしじ)」に行くか話し合い、またしても緊張が走った。

 こんなドタバタの中、私の乗車ガイドはスタートした。この日の締めのあいさつ。「私は今日のこの日のことは一生忘れないでしょう」―全くもってその通りなのである。

  (真地<まあじ>ガマ子)
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