2016年10月14日発行 1448号

【非国民がやってきた!(242)ジョン・レノン(5)】

 1960年代末、ヴェトナム戦争が激化していました。日本でもヴェトナム反戦運動はこの時代の雰囲気を示すうねりの一つとなっていましたが、アメリカ内部でも反戦運動が始まっていました。60年代半ばに盛り上がった黒人解放の公民権運動の先頭に立っていたマルティン・ルーサー・キングは反戦運動を率いていました。大学は学園紛争の場となり、フェミニストたちも権利獲得運動をすすめました。

 ポップミュージックの世界でも、ボブ・ディランの「風に吹かれて」「戦争の親玉」、ピーター・ポール&マリー(PPM)の「悲惨な戦争」、ピート・シーガーの「腰まで泥まみれ」、ピート・シーガーやPPMが歌った「花はどこへいった」、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSNY)の「オハイオ」など反戦歌がヒットチャートをにぎわしました。クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)の「雨を見たかい」も反戦歌と受け止められていました。

 ジョンとヨーコも平和のために何ができるかをあれこれ考えました。

 最初に取り組んだのは「ドングリ・イベント」です。1968年6月25日、2人はコヴェントリー大聖堂の庭にドングリの実を植えました。そして、平和のための宣伝をする目的で、世界各国の元首らにドングリを送って育ててもらうという「平和のためのドングリ・イベント」を行いました。

 ジョンは「これ以上平和的なことなんてないだろう? 世界平和のために植えるドングリ。ドングリそのものはただの小さな実だけど、木は大きく成長していく。すごく象徴的なものだ。それに平和に対する前向きな行為でもある。とにかく植えればいいんだ。それが社会のための前向きな行為になるんだよ」と述べています。

 コヴェントリーはイギリスのウェスト・ミッドランズ州にある工業都市だったため、第2次大戦時にドイツ空軍による猛爆撃を受けました。大聖堂も被害を受けたので、被災した礼拝堂の一部が戦争の記念碑として保存されているそうです。

 2人は次に「ベッド・イン」に取り組みました。

 1969年3月20日にジブラルタルで結婚した2人は、3月25日、アムステルダム・ヒルトン・ホテルのスイート・ルームで最初のベッド・インを行いました。結婚したばかりの2人が高級ホテルのベッドで何かパフォーマンスをすると聞いたジャーナリストたちがホテルに押し寄せました。7日間に200人ものジャーナリストが取材に訪れたといいます。

 取材陣が部屋に入ると、白いパジャマ姿のジョンとヨーコがスイート・ルームの中央にあるダブルベッドに座って、平和を語りました。窓には「ヘアー・ピース」「ベッド・ピース」という張り紙があり、ジョンとヨーコの似顔絵の上に「髪を長く伸ばしなさい」と書いてありました。「〜〜しなさい」という命令形は、ヨーコの『グレープフルーツ・ジュース』の方法です。

 2人は連日、取材陣に平和を語り、質問を受けては応答しました。メディアに取り上げてもらい、平和のメッセージを広めることが目的でした。なかには厳しい批判や意地悪い質問もありましたが、2人はジャーナリストとの対話を楽しみました。ベッド・インは2人のユーモアに始まっていたからです。

 2度目のベッド・インはニューヨークで行うつもりでしたが、ニクソン政権はジョンの入国を拒否しました。そこで、1969年5月26日から8日間、モントリオール(カナダ)のクイーン・エリザベス・ホテルで行いました。パジャマ姿の2人のもとに、150人ほどのジャーナリストが訪れました。2人は戦争の愚かさを訴え、「ピース&ラヴ」の伝道師になりました。ジョンは「平和をどんどん売りまくるんだ」と言っていました。アメリカだけでも350のラジオ局が取り上げたということです。

 また、2人の問題提起に共感した支援者も駆けつけ、ホテルの一室でジョンの作品「平和を我らに(Give Peace a Chance)」を合唱しました。
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