2016年12月16日発行 1457号

【元日テレアナウンサー小山田春樹のあなたの知らないTVの世界 第3回/歌番組支えた才能と努力はいま…】

 「はい、こちらは東京麹町のGスタジオです。今週も全国の視聴者の皆さんの投票をヤングオペレーターが受け付けています」…。

 私が日本テレビアナウンサーとして初めて全国にお目見えしたのは、1977年12月、『NTV紅白歌のベストテン』という番組だった。先輩アナのピンチヒッターで急きょ出演が決まり、3分間の生中継の番組デビューを果たしたのだ。無事生放送を終えた私に、「すごい度胸だね」と先輩の福留功男アナが優しくねぎらいの言葉をかけて下さったのが、嬉しい思い出になっている。

 私は子どもの頃から歌番組が大好きだった。小学校5年生の校外指導でNHKのスタジオ(当時NHKは東京内幸町にあった)を見学した時に、番組担当者に質問しまくり、司会者が立つ位置からカメラの方向を見つめて立ち去ろうとしなかったというエピソードが残っているほどだ。

 1960年代から70年代は、NHK、民放各局とも歌謡曲番組が全盛時代で、週一回のレギュラー放送を行っていた。司会を担当するのは、局のアナウンサー、タレントなど様々であったが、私は高橋圭三、宮田輝、山川静夫(以上敬称略)といった名アナウンサーの司会を学生時代から密かに研究していた。

 歌番組の主役はもちろん歌手であり、司会者は脇役に過ぎない。しかし、脇役がしっかりしていないと番組は正常に進行しない。生放送の場合は、特に司会進行役の能力が問われる。上手くいって当たり前、ミスをしたら大問題という世界で、アナウンサーの失敗は特に目立ってしまう。

 だが、もっと大変なのが、歌番組のディレクターだ。歌手の表情を複数のカメラで撮影し、曲の拍数に合わせたタイミングで切り替えていく。音楽的な才能とセンスが無ければ務まらない専門職である。歌番組のディレクターには才人が多く、自ら音楽の才能に優れた人が多い。歌番組・バラエティショーの大御所だった故井原高忠さん(元日本テレビ制作局長)は、ベース奏者でもある。私が出演していた『うわさのチャンネル』の棚次隆ディレクターはピアノが上手で、出演者の木ノ葉のこさんにピアノを指導したことがあった。彼はリハーサル中に歌手のスナップ写真を撮影していた。どの角度から撮ると魅力的に映るか研究するためだという。彼らの努力は凄まじい。歌番組がほとんど無くなってしまった現在、先人達の技術は後輩に継承されなくなってしまった。テレビ番組が面白くなくなった一つの原因だと思う。

(フリージャーナリスト)
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