2016年12月16日発行 1457号

【シネマ観客席/この世界の片隅に 監督・脚本 片渕須直 2016年 129分/「反戦じゃないからイイ」のか】

 こうの史代の同名漫画をアニメ化した映画『この世界の片隅に』(片渕須直監督)が大きな反響をよんでいる。戦時下における庶民の生活を丹念に描くことで、戦争の恐ろしさを浮かび上がらせた作品だ。ところが、映画を絶賛する声の中には「反戦映画ではないからいい」といったものが少なくない。これは一体、どういうことなのか。

 軍港の町、広島県呉市に嫁いできた北条すず18歳。太平洋戦争の開戦から3年が過ぎていたが、日々の生活はまだ平穏で、すずは自分の居場所を見つけようと奮闘する。だが、戦争は確実に日常を蝕み、気づいた時には世界は「普通」ではなくなっていた…。

徹底した時代考証

 本作品の特徴は、観る者に「すずさんは私だ」と思わせることに成功していることにある。それゆえ戦争中の物語を「自分とは関係のない過去の話」ではなく、今の時代と地続きの世界として身近に感じることができる。

 すずの目線で描かれる戦時下のエピソードは、のん(能年玲奈)が演じるほのぼのとしたキャラクターと相まって、とぼけたユーモアに満ちている。そんな人間の営みを戦争が残酷に壊していく。すずに懐(なつ)いていた姪の晴美は米軍が投下した爆弾で死亡。一緒にいたすずは右手を失う。

 「最初に原作を読んだ時に、すずさんみたいな人の上に爆弾が降ってくるようなことが可哀想で可哀想で仕方がなかったんですよ。で、その時に、これを絵空事じゃないものにしたいと強烈に思ったんです。一番大事なことは、すずさんという人が本当にいる人なんだと、僕ら作り手たちが完全に信じきって作らないといけないと」(片渕監督/映画パンフレットより)

 監督の言葉にあるように、製作スタッフは徹底した時代考証で登場人物に命を吹き込んだ。何を食べ、何を着て、隣近所との付き合いはどうだったのか。徹底的に調べ上げ、背景やシーンに落とし込んでいった。当時の呉が海軍の拠点であり、「東洋一の兵器工場」であったことも、映画はさりげない描写の積み重ねで浮かび上がらせている。

 補足すると、すずが右手を失った1945年6月22日の爆撃は兵器工場を狙ったもの。爆弾は隣接する地区にも降り注ぎ、数多くの民間人が死傷した。また、北条家に焼夷弾が落下した7月1日の空襲は市街地への無差別爆撃であり、防空壕に逃げ込んだ人びとの多くが火災による熱や煙にやられて死亡した。「壕に入らんで命拾いした」というセリフはこのことを指す。

 こうした呉の歴史、軍事都市であるがゆえに多くの市民が犠牲になった事実が映画の背景には存在するのである。

曲解を許す原因

 ところが、本作を絶賛する声の中には「反戦映画じゃないからいいよね」的な評価が無視できないほど多い。「日本が悪い!という思想のおしつけがない」というように。はっきり言って歪んだ見方だと思うが、そうした曲解を許してしまう弱点がこの映画にあるのも事実である。

 たとえば、「玉音放送」の場面の改変だ。原作では次のように描かれていた。−−あっけない降伏の報にすずは怒りを爆発させる。何のために戦争を続けてきたのか。うちらの犠牲は何だったのか。だが、誰かが掲げた太極旗を見て悟る。「この国の正義」が虚構だったことを。「暴力で従えとったいう事か/じゃけえ暴力に屈するいう事かね/それがこの国の正体かね/うちも知らんまま死にたかったなあ…」

 日本も暴力で民衆を抑圧する加害者であったことを想起させる重要な場面だ。呉の軍事工場には多くの朝鮮人労働者が動員されており、日本の敗戦を知って太極旗が翻る設定は不自然ではない。

 映画版はどうか。すずの台詞は「うちらの体は海の向こうから来た食べ物で出来ている」に変わった。この変更について片渕監督は「あのシーンですずさんは日本という国をいきなり背負わなくてもいいんじゃないか?と思ったんです」(月刊ニュータイプ11/16配信)と説明する。生活人であるすずに合った反応にしたというのである。

 確かに原作どおりの展開だとすずのキャラに合わない激しい言葉に観客は違和感を覚えたかもしれない。「自虐史観だ」と非難する論調が湧いて出たことも容易に想像がつく。しかし、トゲはトゲとして残しておくべきであった。この映画を「悲劇を乗り越えた家族の物語」、あるいはただの泣ける話として消費させないためにも。

すでに殺す側の日本

 「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」−−高畑勲監督が自作について語った言葉である(2015年1月1日付神奈川新聞)。

 「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始める時には『そういう目に遭わないために戦争をするのだ』と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と」(高畑監督/同)

 実際、安倍政権は「平和のため」と称して戦争法(安保法制)を通したが、実際にやろうとしているのは自衛隊が他国の民衆を殺傷しかねない駆けつけ警護だ(南スーダン派兵)。日本は再び軍事力で人を殺す側に回った。すずのような市井の人びとに銃口を向ける側になったのだ。

 『この世界の片隅に』を観る際にはこのことを強く意識してほしい。    (O)



ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS