2017年01月27日 1462号

【非国民がやってきた!(249)ジョン・レノン(12)】

 ニクソンとフーヴァーによるジョン・レノン国外追放の画策は、ジョンとヨーコだけでなく、バックバンドのエレファンツ・メモリーのメンバーにも恐怖と不安を抱かせました。ニューヨークのミュージシャンたちも不安に包まれていきます。

 1972年11月7日の大統領選でニクソンが当選し、ジョンとヨーコは落胆し、精神的に追い詰められました。

 おまけに意欲的な2枚組アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』が、ジョンの作品としては不評で、売り上げも伸びませんでした。政治的騒動のさなかのアルバムでした。「ジョン・シンクレア」「アッティカ・ステート」「ラック・オブ・ジ・アイリッシュ」「アンジェラ」など問題作が収録されました。

 とりわけ、「ウーマン・イズ・ザ・ニガー・オブ・ザ・ワールド」が取りざたされました。「女性は世界のニガーである」というのは黒人差別と女性差別の両方を串刺しにして、女性解放を訴える曲でした。ところが、「ニガー」という言葉を用いることへの非難が沸き起こりました。音楽批評家だけでなく、政治家や政治評論家も乗り出してきます。黒人差別のための言葉を解放のために逆用したことが理解を得られなかったのです。テレビもラジオもこの曲をオンエアーしませんでした。

 こうしてジョンとヨーコは、FBIによる監視、国外退去命令、ヨーコの子どもをめぐる裁判を抱えながら、音楽活動を続けなくてはなりません。ジョンもヨーコもエレファンツ・メモリーも作品作りや演奏を懸命に続けましたが、切迫した状況のためライブツアーを計画することも容易ではありませんでした。

 ニクソン再選により、FBIはジョンへの関心を失い、監視活動は終了したと言われます。しかし1973年3月、移民帰化局は再び国外退去命令を出しました。

 これに対して4月1日、ジョンとヨーコは記者会見を開いて「ヌートピア宣言」を公表しました。国境もパスポートもない理念的なヌートピア国家を樹立するとの宣言です。言うまでもなくエイプリル・フールですが、ジョークとともに闘い続ける意思表示でした。

 やがて情勢が大転換することになります。ウォーターゲート事件によりニクソンが失脚したからです。ニクソン、フーヴァー、FBIとジョンとヨーコの闘いはニクソン失脚によって終幕を迎えました。

 ジョンはアルバム『マインド・ゲーム』や『ロックンロール』で、自分を歌い、両親、ヨーコ、子どもを歌い、新しいジョンの世界を構築していきます。

 そして1974年秋、ジョンは元司法長官のジョン・ミッチェルとリチャード・クラインディーンスを連邦地裁に提訴しました。恣意的にジョンを選択して告発したことは不当であり、盗聴をはじめとする違法行為によってジョンの身辺調査を行ったことを指弾しました。国外退去命令に抗して、ジョンが攻勢に出たのです。

 1975年10月7日、ついに連邦控訴裁判所が、ニクソン政権の不当介入の事実を認め、ジョンに対する国外退去命令を撤回する判決を言い渡しました。

 10月9日、ジョンの35歳の誕生日にヨーコはジョンの息子ショーン・オノ・レノンを出産しました。

 1976年7月、ジョンはアメリカの永住権を意味するグリーンカードを手にしました。

 *   *

 史上最高のロックン・ローラーであるジョンのミュージシャンとしての活動は途中の空白を挟みつつ、続きます。1980年12月8日、ダコタハウス前における悲劇まで。平和を求めるジョンの闘いは、その後ヨーコの闘いとして続けられることになります。[完]
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