2017年04月07日 1472号

【非国民がやってきた!(254)土人の時代(5)】

 「土人」の時代を理解するために「500年の植民地主義」と「150年の植民地主義」を区別してみましょう。「500年の植民地主義」とは、大航海時代以後の西欧諸国による「新世界」への到達(発見)の下での植民地主義のことです。アフリカ、アジア、ラテンアメリカを次々と植民地にしていきました。

 その少し前の15世紀に中国側からも大航海の挑戦がなされました。明の永楽帝の時代に鄭和が東南アジアを経て、インド、アラビア半島、アフリカへと7次にわたる大航海を行っています。

 共通点は、この時代に東からも西からも大航海が行われ、地理的「発見」、異文化交流が急速に進められたことです。その前提として造船技術や航海術が飛躍的に発展しました。相違点は、第1に、中国は隋・唐以来の華夷秩序を維持していたため植民地支配を進めなかったこと、第2に、諸地域の文物・文化を獲得したものの資本主義が自生しなかったことです。

 それでは日本はどうでしょうか。中国の華夷秩序の下では夷に位置付けられ、朝貢する側にいた日本です。しかし、日本列島の中では朝廷が武士等の先頭集団に「征夷大将軍」という称号を授与していました。古くは飛鳥時代に阿倍比羅夫が越国将軍として東北地方の蝦夷を「服属」させたとか、平安時代、坂上田村麻呂に東北地方の蝦夷「征伐」を命じたことが知られています。その後も江戸幕府最後の徳川慶喜に至るまで征夷大将軍の歴史が続きました。列島を南北に向かって進撃し、占領し、膨張した日本は幾度も他者と接触することになります。

 1456年、道南の志濃里(現在の函館市)において、アイヌと和人の間で起きた口論が殺人事件に発展し、アイヌの男性が殺されました。これがきっかけとなって1457年、コシャマインの戦いが生じました。渡島半島東部のアイヌの首領コシャマインが率いるアイヌが蹶起し、志濃里の小林良景の館を攻略しました。当時、道南地方には和人12館と言われる拠点がありましたが、そのうち10館が攻め落とされたと言います。戦闘は渡島南部から後志の余市や、胆振の鵡川にまで広がりました。1458年、武田信広軍がコシャマイン軍を撃破して、コシャマインの戦いは終了しました。

 1669年、シブチャリの首領シャクシャインを中心としたアイヌによる和人との闘いが繰り広げられました。シャクシャインの戦いと呼ばれます。15世紀ころから道南地方に和人が増えてきましたが、江戸幕府の下で松前藩が交易権を独占しました。松前藩が設置した商場における知行主とアイヌとの交易を管理しました。シャクシャインの戦いはアイヌ間における対立の面もありましたが、和人とアイヌの戦いが基本です。シャクシャインは各地のアイヌ民族に松前藩に対する蜂起を呼びかけました。シラヌカ(白糠)やマシケ(増毛)のアイヌ民族が呼応して立ち上がりました。ただ、イシカリ(石狩)のアイヌはシャクシャインに従いませんでした。蜂起により300人を超える和人が殺されました。しかし、和人側は和睦を申し出てシャクシャインをだまし討ちし、指導者層を謀殺しました。これによりシャクシャインの戦いは終了に向かいます。その後、松前藩がアイヌとの交易権独占を確立します。

 コシャマインの戦いとシャクシャインの戦いは細かく見ればかなり性格の異なる事件ですが、和人とアイヌ民族の交流史としては、近世幕藩体制を確立していった和人側(松前藩、その背後に江戸幕府)による道南地方の支配の形成・確立期の出来事です。

 これにより和人がアイヌ民族を一定の支配統制下に置くことになり、和人主導での交易、アイヌの強制労働が始まります。松前藩は道南の一地方しか実力支配していませんが、主に漁業におけるアイヌの奴隷的強制労働が北海道各地に広がります。日本人がアイヌ民族を「土人」と蔑むようになった歴史の端緒がコシャマインの戦いとシャクシャインの戦いにあったと言うことができるでしょう。

 日本の植民地主義がこの時代に始まったと言うと、江戸時代やそれ以前に日本の植民地主義を語ることができるのかと異論が出るかもしれません。この点は改めて考えることにして、今度は視線を南に向けてみましょう。
ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS