2017年04月21日 1474号

【非国民がやってきた!(255)土人の時代(6)】

 アイヌ民族との出会いをコシャマインの戦いとシャクシャインの戦いという歴史として記録した日本は、列島の南方でもう一つの出会いを経験しました。「500年の植民地主義」に関連して、「薩摩の琉球侵入」として知られる1609年の出来事を見てみましょう。

 1609年の薩摩藩の侵攻を受けて以後、琉球王国は薩摩藩の実質的な支配下に入ったとされます。ただし、対外的には独立した王国として存在し、中国や日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた、という説明もよくなされます。

 この説明は近代西欧の国際法秩序を前提とした説明に引きずられている面があります。近代国際法では独立の主権国家(文明国家)が主体として登場します。独立の主権国家と認められない「野蛮な諸民族」は植民地化の対象になります。他方、東アジアにおける中国の歴代諸王朝が採用してきた華夷秩序からすれば、「華」と「夷」の間には植民地化ではなく朝貢関係が成立します。上記の「琉球王国は薩摩藩の実質的な支配下に入った」とか、「対外的には独立した王国として存在」という表現は、華夷秩序を近代国際法から見た説明と言えるかもしれません。

 琉球王国は1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在しました。三山時代を経て統一された王国の成立が1429年頃とされ、1469年頃、第二尚氏の王朝が成立します。最盛期には奄美群島、沖縄諸島、先島諸島までを統治しました。

 東アジアの「大航海時代」とも言うべき時代、東シナ海・南シナ海貿易圏が成立していきますが、琉球王国は、隣接する中国(明・清)の海禁政策や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海沿岸諸地域の間で中継貿易を発展させました。その交易範囲は南シナ海や東南アジアにも広がりました。例えばマラッカ王国との深い交流が有名です。

 マラッカ王国とは、15〜16世紀にマレー半島南部に栄えたイスラム系の都市国家です。琉球王国もマラッカ王国も明王朝に朝貢しましたが、マラッカ王国は1511年、ポルトガルによって陥落させられました。

 薩摩の琉球侵入については諸説ありますが、背景となるのは豊臣秀吉の文禄・慶長の役(李氏朝鮮への征服戦争)です。豊臣秀吉は琉球王国に加勢を求めましたが、明の冊封を受けていた琉球王国はこれを拒否しました。文禄・慶長の役で豊臣軍が朝鮮半島に攻め入った時、実際には琉球王国は豊臣軍に食料を提供し、兵站の一部を担ったといいます。

 1609年3月、島津氏の薩摩藩は3000名の兵を率いて薩摩を出発し、琉球王国の奄美大島に上陸しました。さらに3月26日には沖縄本島に渡り、4月1日には首里城に迫りました。4月5日、尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城しました。

 これ以降、琉球王国は薩摩藩に朝貢することになりました。また、江戸幕府に使節を派遣しました。琉球冊封使は、1404年、明の永楽帝と琉球の武寧王の間で始まり、1652年、清の順治帝と琉球の尚質王の間が最後となります。冊封使とは、歴代中国王朝の皇帝が、朝鮮、越南(ヴェトナム)などの付庸国の国王に爵号を授けるために派遣した使節を言います。

 薩摩藩と清への「両属」という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ったとされます。

 「両属」という言葉が用いられてきたため、琉球王国が薩摩藩に属した。琉球王国が清に属した――このような印象を持つことになります。ただ、華夷秩序のもとで、朝貢国は相手国に対して礼儀と貢納を尽くしますが、近代西欧流の直接の支配・従属関係にあったわけではありません。西欧的な植民地概念を前提とすると当時の琉球王国の地位が見えにくくなります。「500年の植民地主義」を語るにしても、両者の差異を無視することはできません。
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