2017年05月05・12日 1476号

【非国民がやってきた!(256)土人の時代(7)】

 アイヌモシリと琉球王国に対する「500年の植民地主義」は、朝鮮半島への軍事侵略を引き起こしました。

 李氏朝鮮への侵略・征服戦争は、太閤豊臣秀吉の文禄・慶長の役と呼ばれます。文禄の役は、文禄元年(1592年)に始まり、文禄2年(1593年)に休戦となりました。続く慶長の役は、講和交渉が決裂したため慶長2年(1597年)に再開され、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死んだため日本軍の撤退で終結しました。朝鮮征伐、朝鮮出兵という呼び名もありますが、日本側から見た一方的な命名です。

 朝鮮では、李王朝の時代から倭乱と呼び、戦乱が起こった時の干支を取って、文禄の役を壬辰倭乱、慶長の役を丁酉倭乱(丁酉再乱)としてきました。

 日本側から見るか、朝鮮側から見るかで名称が異なったわけですが、朝鮮側には何の落ち度もなく、攻撃される理由がありません。侵略と抵抗の関係にあると言えるでしょう。

 最近では東アジア三国それぞれの自国史にとどまらず、地域の歴史を描くために日韓中共同研究がなされています。その中で「壬辰戦争」という呼称が提唱されました。韓国の歴史学界でも、倭乱という表記は自国中心史観であるとして、一部の教科書では2012年から壬辰戦争という表記が採用されています。

 織田信長に続いて天下統一を果たした秀吉は大明帝国を征服したいという野望を抱き、西国地方の諸大名を動員して遠征軍を派遣しました。

 秀吉が海外進出の構想を抱いていたことは、天正13年(1585年)以降の文書記録に残されています。史学的には1585年が外征計画の始まりとされます。

 天正14年(1586年)には、秀吉はイエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟の秀長に任せ、唐国(明)の征服に赴くつもりであると伝えたと言います。そのために2,000隻の船を建造させる計画を有していました。

 同年、毛利輝元への朱印状14カ条でも外征計画を披露していますし、対馬の宗義調への書状でも九州平定の後、高麗征伐を決行すると予告しています。

 秀吉は、まず明の冊封国である李氏朝鮮に服属を強要しましたが拒まれました。そこで朝鮮に遠征軍を派遣したのです。小西行長や加藤清正らの侵攻によって混乱した首都から逃れた朝鮮国王・宣祖は、明の援軍を仰ぎ、連合軍で豊臣軍に抵抗しました。明が出兵を決断したのは戦闘が遼東半島まで及ばないようにするためでした。朝鮮半島で豊臣軍を阻む必要があります。明軍の支援のため、戦線は膠着しました。

 豊臣軍は、名護屋(現在の佐賀県唐津)滞在が10万、朝鮮出征が16〜20万の勢力です。これには人夫や水夫などの非戦闘員が含まれていました。もっとも、非戦闘員も兵員に転用された場合もあると言います。

 当時、日本全国の総石高は約2000万石でした。1万石あたり250人の兵を動員したとすると、総兵力は約50万人となります。文禄の役の25万以上の動員数は、総兵力の半分程であったことになります。

 慶長の役では「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ」という命令が出され、目標達成後は沿岸部へ撤収し、城(倭城)を築いて占領することも想定していました。九州・四国・中国勢を中心に編成された14万人もの軍勢が対馬海峡を渡って釜山浦を経て各地に向かいました。

 壬辰戦争は、朝鮮半島を舞台として行われた、日本対明・朝鮮連合という国際的広がりのある戦争です。16世紀に、欧州やアフリカではこれほど大規模な戦争は起きていません。

 「500年の植民地主義」は北ではアイヌモシリに対する戦争、南では琉球王国に対する戦争を遂行しました。そして西では朝鮮半島での戦争となりました。武士階級の支配確立後、生産力の発展、兵器の発展、そして世界認識の膨張ゆえに、日本が周辺地域、周辺諸国に軍事侵略した歴史です。
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