2017年05月26日 1478号

【非国民がやってきた!(257) 土人の時代(8)】

 「150年の植民地主義」もアイヌモシリへの侵略に始まります。アイヌモシリとは「人間の静かなる大地」という意味で、アイヌ民族が居住した地域です。現在の北海道、及び場合によっては樺太(サハリン)や千島(クリル)を指すと言います。

 1789年(寛政元年)、クナシリ・メナシの戦いと呼ばれる事件が起きました。クナシリ場所請負人との交易や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが蜂起し、和人の商人を襲い殺害しました。さらにネモロ場所メナシ(現在の標津町付近)のアイヌも呼応し和人の商人を襲いました。

 松前藩が鎮圧に赴くとともに、アイヌの首長も説得に当たった結果、蜂起したアイヌたちは投降し、中心メンバー37人は処刑されました。和人側の犠牲は71人だったと言います。

 松前藩はクナシリ場所請負人だった飛騨屋の責任を問い、場所請負人の権利を剥奪し、その後の交易を新たな場所請負人に変えました。一方、徳川幕府は1791〜92年(寛政3〜4年)、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行いました。

 クナシリ場所というのは、松前藩とアイヌの交易のために設定された知行地でした。千島列島の国後島に設置され、択捉や得撫も管轄したようです。国後島の泊に交易の拠点が設置されていたのです。クナシリでは鮭を用いた〆粕(魚肥)の製造が行われていました。ところが松前藩から交易請負を認められた請負人がアイヌを虐待し低賃金で搾取していました。劣悪な労働環境で酷使し、女性に対する性暴力も見られたと言います。

 和人だけではなく、北方からやってきたロシア人もアイヌとの交易を始めており、やはり経済的に圧迫していたと言われます。

 江戸時代、アイヌモシリにおける和人とアイヌの交易は、江戸幕府から権限を与えられた松前藩が行った時期と、江戸幕府が直々に行った時期がありますが、いずれにしても幕府または藩の許可のもとに商人が実際の取引を行いました。江戸初期まではアイヌモシリの南端、蝦夷南西部の松前藩所在地を中心とした交易がなされてきましたが、クナシリ・メナシは東蝦夷にあります。和人が松前だけではなく、各地に進出して定住し始めていたのです。

 19世紀に日本は世界史の只中に登場することになります。ペリーの黒船来航はその象徴ですが、泰平の世から欧米諸国による開国の世になります。北からはロシアが南下してきましたから、江戸幕府は北の防衛にも苦慮しました。

 17世紀にすでに松前藩は樺太や千島を支配地と認識していたようですが、1855年、日露和親条約で択捉島と得撫島の間に国境が引かれました。

 江戸時代に伊能忠敬、間宮林蔵、松浦武四郎らによる測量・調査がなされてきましたが、明治維新になると新政府は1869年、アイヌモシリ(蝦夷)を北海道と命名しました。さらに北海道開拓使を設置し、北方警備と開拓のために屯田兵を次々と送り込みました。

 ところが1875年の樺太千島条約で、千島を日本領、樺太をロシア領としました。その後、日露戦争の結果1905年のポーツマス条約により南千島が日本領になりました。

 いわゆる「北方領土」問題は現在も日露の交渉が続く懸案事項となっていますが、もっとも重要なテーマが隠蔽されています。それはアイヌモシリがいつ日本領になり、アイヌ民族がいつ「日本人」になったのか。それはいかなる手続きと正当性に基づくのか、です。

 アイヌモシリ(北海道、樺太、千島)に居住してきたアイヌやギリヤークの歴史と意思を無視して、日本とロシアが勝手に線を引いたにすぎないのです。北方警備と開拓のための屯田兵とはアイヌ民族に対する侵略者でした。本州、中国、四国を「内地」と呼び、北海道や朝鮮半島や「満州」を「外地」と呼んだ歴史の結果、今でも北海道の住民の間では「内地へ行く」という言葉が使われます。それは本国(宗主国)と植民地の関係を表現する言葉です。
ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS