2017年06月23日 1482号

【非国民がやってきた!(259) 土人の時代(10)】

 「150年の植民地主義」は南ではどのように発現したでしょうか。それは「琉球処分」という言葉で語られてきました。しかし、歴史的に見れば、琉球王国は独立の国家であり、日本の一地方ではありませんでしたから、「琉球併合」と言うべきでしょう。

 そのことを直截に示すのが、1854年の琉米修好条約です。

 1854年は日本史では、ペリーの黒船来航と日米和親条約で知られます。ペリー提督率いる艦隊は最初、1853年に来航し、日本に開国・通商を求めましたが、江戸幕府はすぐに対応することができず、一年の猶予を置くことになりました。翌1854年、再び来航したペリーと江戸幕府は協議を重ねた結果、3月31日に日米和親条約を結び、下田と箱館(函館)を開港し、食料や水等の物資を提供すること、米国船舶の事故への救援・対処、米国への最恵国待遇付与を定めました。それまで「鎖国」政策をとっていた日本が、国際社会(欧米諸国)に対して開国した条約です。

 日本史では日米和親条約だけが語られます。しかし、その100日後に締結された琉米修好条約の存在を無視することはできません。ペリー艦隊は日本との条約締結後、琉球に渡航し、首里城を訪れて条約締結を迫ったのです。

琉米修好条約(亜米利加合衆国琉球王国政府トノ定約)は、両国間の自由貿易、米国船舶の事故への救援・対処、米国への領事裁判権付与を定めました。

 琉米修好条約に関する最新の研究は、「琉球処分」の歴史的意味の再検討を迫ります。『琉球新報』2014年7月11日の記事は「『琉球処分は国際法上不正』、外務省否定せず、琉米修好条約きょう締結160年、主権回復、今も追及可能」として、次のように報じました。

 「日本政府が琉球王国を強制的に併合した1879年の『琉球処分』について、国際法研究者は10日までに、琉球国が米国など3カ国と結んだ修好条約を根拠に『国際法に照らして不正だ』との見解を示した。研究者は3条約締結の事実から『琉球は国際法上の主体であり、日本の一部ではなかった』と指摘。軍隊や警察が首里城を包囲し、『沖縄県設置』への同意を尚泰王に迫った政府の行為は、当時の慣習国際法が禁じた『国の代表者への強制』に当たるという。慣習法を成文化したウィーン条約法条約51条を基に、現在からさかのぼって主権=自己決定権の保障を要求できるとの見方を示した」

 国際法研究者とは、上村英明(恵泉女学園大学教授)と阿部浩己(神奈川大学教授)です。

 上村英明は、国の代表者への脅迫や強制行為の結果、結ばれた条約は無効であるとするウィーン条約法条約51条に言及して、琉球処分の国際法違反を指摘します。独立国家である琉球王国の併合は植民地支配であり、その下での琉球差別や人権侵害の全体に違法性が及びます。

 阿部浩己は「日本は国際法上、合法的根拠がないまま琉球を不正に併合した可能性がある」と指摘します。

 ここでは何よりも、琉球王国が1854年に国際社会における独立国家と認知されていたことを確認する必要があります。アメリカなど3カ国が琉球王国と修好条約を締結したということは、琉球王国が国際法上の主体であったということです。日本国が国際法の主体として日米和親条約を結んだのも同じ1854年です。

 それゆえ、日本による琉球処分とは琉球王国に対する植民地化です。首里城を包囲して尚泰王を脅迫し又は強制行為によって琉球処分を行ったことは、ウィーン条約法条約に照らして違法な行為であった疑いがあります。後に韓国併合の際にも日本政府は同じ方法を採用しています。琉球併合も韓国併合も国際法上の瑕疵のある植民地化だったというべきでしょう。

<参考文献>
琉球新報社・新垣毅『沖縄の自己決定権』(高文研、2015年)
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