2017年06月30日 1483号

【TVの世界 第7回 「元気」な記者が過労自殺?】

 その日、私は地下鉄千代田線・国会議事堂前のホームのベンチに腰を下ろしていた。当時私は31歳。アナウンサーから報道部記者へ配属が変わって2年目の出来事だった。

 「きょうは珍しく仕事が早く終わった。終電の一つ前の地下鉄に乗れるから自宅まで電車で帰れるな」私はぼーっとしてベンチに座っていた。やがて電車が近づいてきた。先頭車両のまばゆいヘッドランプが目に入る。きらきらと輝いてとても美しい。なんて美しいのだろう!大きなダイヤモンドのようだ。欲しい!私の手の上に乗せてみたい。私は夢遊病者のように立ち上がった。何者かに憑依(ひょうい)されたように私はふらふらとホームの先端に向かって進む。激しい警笛が鳴る。ああ、美しい!もうすぐ手に取れる。私はなお前に進む。その時、突然私の脳裏に怒声が轟いた。

 「危ない!春樹、しっかりしろ!何をやっているんだ!」それは、前年に亡くなった父親の声だった。私は身体がブロックされたように立ち止まっていた。私の立っていた場所は、黄色い線を越えてホームの先端まであと30センチの地点だった。我に返り恐怖感が襲う。ほんとうに危なかった!

 今振り返ってみても、何故あのような行動をとったのか、私には説明がつかない。もしあのまま歩み続けてホームから転落して電車に轢(ひ)かれて死んでいたら、私は自殺として扱われたであろう。しかし、当時の私に自殺するような動機は全く無かったのだ。私はアナウンサーから記者に変わり、「芸能アナ上がりに政治記者が務まるのか」などの冷たい視線を跳ね返し、毎日取材、記者リポートをこなしていた。さらに自民党担当記者として、意気揚々と活動を始めた時期である。負けず嫌いの私は、政治家の自宅を夜訪問する夜回りを他社の記者の2倍以上こなしていた。おまけに、父が56歳で急逝し、悲嘆にくれる母を励まし支えていた時期である。私が世帯主として家族を養っていかなくてはならないのに、自殺するなんて許されない境遇だった。

 当時の勤務状況は、残業が月150時間から200時間。平均睡眠時間は3時間。食事は移動中の車中で取ることも多かった。夜回りでは、政治家たちからつきあい酒を強要されてストレスがたまっていた。そういえば、飛行機の移動で着陸時に「飛行機が墜ちたら楽になれるだろうな」との想いがふとよぎることがあった。

 「過労による自殺」の闇は深い。過労死・過労自殺の悲劇を止めよう!

(フリージャーナリスト)
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