2017年08月04日 1488号

【非国民がやってきた!(262) 土人の時代(13)】

 植民地分割の例をもう2つ見ておきましょう。

 西欧諸国は周辺地域に「進出」して併合し、大航海時代には世界各地へ遠征して植民地を獲得しました。その際、植民者の都合で国境線を引き、植民地を分割しました。植民地分割とは、西欧諸国による世界の植民地分割を意味する用法があります。

 他方、ある民族集団の居住地域に西欧諸国が国境線を引くことによってその民族集団が分断される植民地分割があります。前回のティモール分割はこの例です。

 同様の例はアフリカ各地、中東地域に数多く見られます。アフリカ各地に目立つ直線の国境は、西欧諸国の都合で引かれたものです。国境の両側に分断された民族集団がそれぞれの「国籍」を持たされ、異なる歴史を歩み始めることになります。

 植民地分割による民族分断が現在の悲劇につながった例としてルワンダ、ブルンジの例があります。ルワンダとブルンジは19世紀末にドイツの保護領となり、1918年、ベルギーの委任統治領になりました。1962年に独立した際にルワンダ共和国とブルンジ王国となりました。

 北に位置するルワンダはフツ人が84%、ツチ人が15%程とされます。公用語はキンヤルワンダ語とフランス語で、宗教はカトリックが65%、プロテスタントが9%。フツ人はバンツー系、ツチ人はナイル系とも言われますが、実際には両者の区別は難しく、同じ家族の中に分断線が引かれる状態だったとも言われます。植民地支配のためにベルギーが少数派のツチ人を利用したので、フツ人とツチ人の対立が激化するなど複雑な歴史があります。1994年にフツ人によるツチ人に対するジェノサイド(大虐殺)が起きたことは有名です。民族対立と同時に政治対立が要因となりました。

 南のブルンジはフツ人が85%、ツチ人が14%程です。公用語はフランス語とキルンジ語で、カトリックが62%、プロテスタントが5%です。ルワンダと同様にフツ人とツチ人の対立が続き、1993年には内戦となっています。

 ルワンダとブルンジはコンゴ民主共和国をはじめとする周辺諸国の騒乱にも巻き込まれるなど不安定な状況が続いています。

 3つ目にアイルランドを見てみましょう。アイルランドは古代からケルト人の歴史を持ちますが、12世紀にはノルマン人の侵攻が始まりました。16世紀以来、イングランドとの対立や宗教改革の波に洗われ、17世紀にクロムウェルの侵攻があり、1801年に完全に植民地化されました。20世紀に入って独立運動が始まり、特に1920年頃にアイルランド独立戦争が闘われます。

 その結果、1922年にアイルランド自由国が自治領と認められましたが、北部6州(北アイルランド)はイギリス領に残されました。1938年、アイルランド共和国が独立しましたが、その後も1998年まで北アイルランドの領有権を主張し続けました。

 民族主義者によるアイルランド革命軍(暫定派、IRA)は北アイルランドのアイルランドへの統合を主張して武装闘争を続け、銃撃戦、爆弾戦、ハンガー・ストライキなど多様な闘争が展開されました。武装解除がなされたのは2005年のことです。

 アイルランド分割はイングランド・ウェールズの膨張政策の帰結です。イングランド・ウェールズは大航海時代以来、インドやオーストラリアをはじめ世界各地を植民地とし、パクス・ブリタニカの時代を築きました。並行して1707年にスコットランドを併合し、1801年にアイルランドを併合したのです。

 2014年9月、イギリスからの離脱をめぐるスコットランドの住民投票の際、スコットランド側に植民地からの独立を掲げる意見がみられたように、スコットランド王国はかつて独立国家だったのです。アイルランドも同じです。イギリスという国はイングランド・ウェールズ・スコットランド及び北アイルランドです。イングランド・ウェールズによる周辺地域の併合と、アイルランド分割の歴史を忘れることはできません。

 以上、東ティモール、ルワンダ・ブルンジ、アイルランドの植民地分割を見てきました。それでは日本による植民地分割はどのようになされたのでしょうか。
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