2017年08月18・25日 1490号

【非国民がやってきた!(263) 土人の時代(14)】

 東ティモール、ルワンダ・ブルンジ、アイルランドの植民地分割の例は、植民地主義による占領・併合・同化の強要だけではなく、被植民地の強制分割が行われるということです。日本植民地主義も東アジアで同じことを繰り返しました。

 まずアイヌモシリについて見ていきましょう。アイヌモシリ(アイヌの大地)とは、現在のサハリン(樺太)、北海道(蝦夷)、千島列島(クリル)を指します。この地域には1000年来、アイヌ民族やギリヤーク民族が居住してきました。蝦夷地に和人(日本人)がやって来たのは13〜14世紀のことです。シャクシャインの闘いが1457年であったことを思い出してください。北海道最南端の函館周辺に和人が定住して、アイヌ民族と衝突したのです。

 17世紀になると松前藩が江戸幕府に提出したとされる地図に、アイヌモシリは松前藩が「支配」しているかのように記載されていたため、日本史ではそのように記載する例も見られましたが、松前藩が「支配」していたのはほんのわずかの「点」にすぎません。他方、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが択捉島でアイヌから毛皮税を徴収したという記録が残されています。南から和人、北からロシア人がアイヌモシリにやって来るようになったのです。

 状況が大きく変化したのは19世紀半ばのことです。1854年、「改正蝦夷全図」が完成しました。千島列島に加え、樺太全島やカムチャツカ半島も含んだ詳細な地図です。1855年、日本(徳川幕府)とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線としました。

 留意点の第1は、1年前に日本側には地図が出来上がっていたことです。領土交渉の際に有利になります。

 第2は、条約交渉過程で、日本側は「北海道にはアイヌが住んでいるから日本領だ」という主張をしたことです。アイヌが日本人であると決定したことは一度もありませんが、対露交渉の際には「アイヌが住んでいるから」と主張し、十分な知識を持たないロシア側の主張を退けたのです。

 第3は、千島列島を分割して、日本とロシアで山分けにしたことです。

 1869年、明治維新政府は蝦夷地を北海道と改称しました。同時に国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置きました。つまり、日本領に北海道と千島国が確認されたのです。

 ところが1875年、日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、「クリル諸島」を日本領としました。また日本とロシアの共同統治とされていて、両国民の紛争の絶えなかった樺太をロシア領としました。「千島国(国後島・択捉島)」に得撫島以北を編入したので、千島列島全体が千島国になりました(国後島から占守島まで)。

 日本とロシアの間では「樺太・千島交換条約」と呼びました。しかし、アイヌモシリの観点から見れば、これは日露による植民地再分割です。アイヌ民族には一言の断りもなく、日露はその時々の都合に合わせて植民地再分割を繰り返します。

 1904〜05年の日露戦争の結果、ポーツマス条約により南樺太が日本に割譲されました。日露戦争と言えば日本海海戦に光が当たり、「坂の上の雲」の物語が紡ぎだされますが、勝者・日本による南樺太割譲という植民地再分割です。

 その後、1917年のロシア革命によりソ連邦が成立しますが、領土に関しては日露の領土がそのまま維持されます。他方、1918年には革命に対する干渉戦争としてシベリア出兵が行われました。日本が東アジアで軍事的冒険主義にいっそう乗り出していきます。1931年の満州事変、1937日中戦争本格化、1941年のアジア太平洋戦争へとなだれ込んでいきます。

 アイヌモシリに関する植民地分割は、その後、第2次大戦終結時にソ連軍が南千島を占領したことに始まる「北方領土問題」に姿を変えます。「北方領土問題」は日ソの関係だけを基に論じられがちですが、もともと日露による植民地分割のフィールドとされていたことを忘れるべきではありません。
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