2017年09月01日 1491号

【うちなーびけん (第96回) 平和を求め続けた大田昌秀さん】

 「基地のない平和な沖縄」を掲げ、平和の礎(いしじ)建立など平和行政を積極的に取り組んだ元沖縄県知事の大田昌秀さんが6月12日、92才で逝去した。

 7月26日、沖縄では大田さんを偲ぶ県民葬が執り行われ、参列した約2千人が大田さんとの別れを惜しんだ。友人代表の辞で元副知事の比嘉幹郎さんは大田さんを「反戦平和の学者政治家」と表した。戦後琉球大学教授を経て、県知事、参院議員を経験し、政治家引退後も沖縄国際平和研究所を設立し、講演や執筆活動、戦時の記録写真の展示など、生涯を通じて沖縄戦の研究や記録と平和の発信に努めてきた。

 一貫して平和を追求し続けたその原点は、沖縄戦時に鉄血勤皇隊として学徒動員され戦争によって多くの学友を失った体験にある。生き残った者の使命として大田さんが心血を注いだ、沖縄戦の全戦没者名を刻む平和の礎や沖縄県平和祈念資料館は、二度と同じ過ちを繰り返さないという平和への強い決意が具現化されたものだ。

 基地をめぐっては、米軍用地の強制使用で県の代理署名を拒否し国と争った裁判や、95年の米兵による少女暴行事件に端を発した普天間基地返還交渉など、沖縄の基地問題を全国に発信し、基地が押し付けられる不条理を大きく問ってきた。

 2010年1月の那覇市無防備平和条例をめざすシンポジウムで、大田さんは非武装地域として高度な自治を実現するオーランド諸島などを紹介し、無防備都市について「那覇から始めて県内全部でやろう」と提言した。そこに、学者として衰えぬ探求心を見た気がした。

 先日、新聞に掲載された大田さんの功績を振り返り、あらためてその偉大さを実感した。目に見える形で示された基地返還アクションプログラムや、沖縄経済の自立を目指す国際都市形成構想をはじめ、県立公文書館建設、沖縄物産アンテナショップの全国展開、夜間保育の制度化、県レベルでは全国初のオンブズマン制度、初の女性副知事登用、女性総合センター創設など、実に多くの先進的な取り組みをされてきたことを知った。それだけに、基地全面返還の日をその目で見ることなく亡くなられたのが残念でならない。

        (中山すず)

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