2017年09月08日 1492号

【非国民がやってきた!(264) 土人の時代(15)】

 北方領土問題は二転三転の変遷の果てに、収拾がつかない有様です。2016年にプーチン大統領来日を迎えて、安倍政権は北方領土返還に向けて前進すると大宣伝しましたが、蓋を開けてみれば成果がありませんでした。

 返還運動の中では「呼び戻せ、父祖が築いた北方領土」といったスローガンが用いられてきました。とはいえ、北方領土問題は北海道では重要問題であり続けているものの、全国的にはさしたる話題にはなりません。北方領土がどこにあるかを知らない人が多く、北方4島の名前を読めない政治家が多数います。歯舞諸島を歯舞島という一つの島と誤解しているのはまだましな方でしょう。

 カイロ宣言には樺太・千島のことは書かれていません。米英中の宣言ですからソ連には適用できませんが、ソ連も加わったポツダム宣言はカイロ宣言の履行を明示しています。そのポツダム宣言も何も言及していません。ただ大西洋憲章からカイロ宣言まで、連合国には領土拡張の意図がないことが確認されています。

 1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾しました。ところが8月8日に対日宣戦布告をしたソ連は、8月18日にカムチャツカ半島から千島列島へ進軍し、日本軍との間で占守島の戦いを行い、得撫島以北を占領しました。8月25日に南樺太、9月1日までに択捉・国後・色丹島を占領しました。日本が連合国への降伏文書に調印したのは9月2日です。ポツダム宣言受諾にもかかわらず、あえてソ連軍が侵攻したのです。形式的な法律論を採用すれば、戦争終結は降伏文書に調印した9月2日ですが、実質的にはそれを見込んでの不当な占領ではないかと言えます。この2週間のことを知っている日本人はどれだけいるでしょうか。

 1952年のサンフランシスコ講和条約第2条(c)は「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」としています。日本の権利放棄を明示していますが、その帰属先がソ連とは書いていませんし、ソ連は条約当事国ではありません。千島列島は日本が軍事侵略した場所ではなく、近代史において日本以外の国の領土になったことはありません。

 ところが、この時期から千島列島を分割する思考が登場します。まず歯舞諸島は千島列島に含まれないというダレス米全権見解です。吉田茂全権は歯舞・色丹は北海道の一部であり千島列島ではないとします。1950年国会では「南千島は千島列島ではない」というウルトラ技が登場します。西東京は東京ではなく、東大阪は大阪ではないことになります。こうして北海道の一部である歯舞・色丹、南千島である国後・択捉の併せて4島が北方領土だという認識が形成されます。

 その後、北方領土返還は元住民を中心とした北海道民の悲願となります。しかし日ソ交渉は二転三転しました。1950年代の日ソ平和条約交渉は冷戦の壁を越えることができませんでした。その後の日露交渉も時に光が見えたものの、解決はむしろ遠ざかった印象があります。

 この間、分割論はさらに続きます。第1は2島返還論です。国後・択捉は現状維持のままとし、歯舞・色丹を先行返還するという案です。1956年の日ソ条約交渉で登場しますが、アメリカから横やりが入って挫折します。1992年にも2島返還が提起されましたが、日本は拒否しました。返してくれるというものを返してもらうという当たり前のことができない政府でした。

 第2は3島返還論です。岩下明裕(北海道大学教授)は、歯舞・色丹に加えて国後も対象とする返還案を提唱しました。ロシアは諸外国との間に多くの領土問題を抱えていました。中国やノルウェーとの領土問題解決に当たってプーチンはフィフティ・フィフティ方式を採用しました。面積を半分ずつというものです。面積だけでなく、資源、世論その他多様な要因を考慮しながら、相互にウィンウィンの関係を構築する交渉が望まれます。北方領土にも同じ方式を提案して、解決できるという現実的な提案ですが、4島返還論者から猛攻撃に遭いました。

 以上のように北方領土問題では、千島列島を分割する思考が続いています(ただし、日本共産党は全千島の領有権を主張しています)。

 植民地分割が一度始まると歯止めが利かなくなる一例と見ることもできます。アイヌモシリの分割、再分割が続くのです。

<参考文献>
岩下明裕『北方領土問題――4でも0でも、2でもなく』(中公新書、2005年)
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