2017年10月06日 1496号

【非国民がやってきた!(266) 土人の時代(17)】

 日本による植民地分割の例はアイヌモシリ分割だけではありません。琉球も分割の対象とされました。

 明治維新により国際社会のアクターとして登場した日本は領土の確定を急ぎました。北ではアイヌモシリを北海道とするとともに、南では琉球王国の処遇を検討しました。

 琉球王国は、琉米条約の締結に見られるように、日本と同じように国際社会のアクターとして認められつつありました。しかし日本側には薩摩藩に朝貢しているという意識がありました。琉球王国は清(中国)にも朝貢していましたから、日清の間で勢力圏争い(領土紛争)の種となります。最終的には1879年の琉球併合(琉球処分)で琉球は沖縄県となりますが、その際に琉球分割案が浮上したのです。

 日清の勢力圏争いに巻き込まれた琉球王国をどうするか。この時、アメリカが介入しました。

 前アメリカ大統領ユリシーズ・グラントは、琉球北部(奄美)、琉球中部(沖縄本島)を日本の領有とし、琉球南部(宮古、石垣)を清が領有するという内容でした(琉球二分割案)。

 これを受けて、清側が提案したのは、北部(奄美)は日本、南部(宮古、石垣)は清が領有し、中部(沖縄本島)に琉球王国を残すという内容でした(琉球三分割案)。

 さらに清側は、北部(奄美)、中部(沖縄本島)は日本が領有するが、南部(宮古、石垣)に琉球王国を復活させるという案も検討していたと言います(西里喜行「琉球分割の危機」沖縄タイムス1998年6月1日〜5日)。

 分割案について日清はいったん合意に達しました。1880年10月21日、日清は琉球分割条約に合意し、10日後に調印することを約束したのです。

 しかし分割条約は調印に至りませんでした。理由はいろいろあるようですが、一つは、日本が尚泰及びその息子の引渡しを認めなかったことです。琉球王国を残すために、清は尚泰一族の引渡しを求めましたが、実現できません。

 そこで、天津に滞在していた琉球人の向徳宏(幸地朝常)を国王に即位させる案も検討されましたが、李鴻章の説得にもかかわらず向徳宏(幸地朝常)は国王即位を拒絶しました。

 向徳宏(幸地朝常)懇請、続く林世功(名城里之子親雲上)の自決により、分割条約調印が延期となりました。清ではこの件をめぐる大論争が行われたと言います。いずれにせよ清における琉球救国運動により分割の危機はひとまず回避されました。

 しかし、第二幕が続きます。1881年6月24日、今度はドイツ公使ブラントが介入します。ブラントの再交渉の呼びかけに応じて、日本は尚泰の嫡子である尚典を清に引渡して、分割条約を調印する方針に転じました。

 清側は二転三転し、あれこれ条件を付すなどの経過をたどりますが、琉球最後の三司官であった毛鳳来(富川盛奎)が清に亡命して、分割反対・琉球王国復活を訴えた結果、清は分割条約の調印を延期しました。

 琉球分割条約が復活する可能性は1890年代まで続き、琉球救国運動はその後も分割阻止を求めていました。しかし日清戦争の結果、沖縄県が日本領であることを変更することは困難になりました。

 日本、清、アメリカ、ドイツが琉球分割案を提案、検討、交渉した歴史経過は、文明を自称した諸国の植民地主義を如実に示しています。
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