2017年11月03日 1500号

【非国民がやってきた!(268) 土人の時代(19)】

 沖縄の日本からの分離、そして米軍直接統治は、沖縄戦、引き続く軍事占領、及び、形式上はニミッツ布告によって進められました。つまり、アメリカが実力によって強行したことです。

 しかし、日本側がこれにすり寄り、合意し、沖縄を取引材料として利用した事実も良く知られています。いわゆる「天皇メッセージ」です。周知の事実ですが、植民地分割に関連するのでここで見ておきます。

 天皇メッセージとは、1947年9月に、天皇(後の昭和天皇)が、琉球列島を米軍が50年間占領して利用するよう希望するとの考えを、当時、天皇の御用掛であった寺崎英成を通じてウィリアム・シーボルトに伝え、マッカーサー元帥にその内容を送ってもらうように依頼したとされているものです。進藤栄一(現・筑波大学名誉教授)が、米国の公文書館でシーボルトの報告電文を発見し、1979年に公表しました。

 シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙「将来の琉球列島に関する天皇の考え」(1947年9月22日)に付された「マッカーサー元帥宛のメモ」(同年9月20日)には、天皇は米国が沖縄や琉球列島の島に軍事占領を継続することを希望していること、それにより米国にも日本にも有益であり、ロシアの脅威や左翼・右翼の台頭に対処できるとし、具体的には日本の主権を残した状態で、25年又は50年間、あるいはさらに長期間の賃借の形態に基づくものを想定していること、それは日米間の2国間の条約によるべきであると考えていることが記録されています。

 後に宮内庁が編纂した『昭和天皇実録』にも、1947年9月19日に、寺崎英成御用掛がGHQ(連合国軍総司令部)外交局長のシーボルトを訪問し、「沖縄占領の継続を望むという天皇の意向を伝える」としたことが記載されています。

 昭和天皇は1948年2月にも寺崎を通じてGHQに沖縄長期占領の希望を伝えたと言います。

 メッセージは1947年9月です。その意味は、第1に国内的には、憲法違反の疑惑ということになります。1946年11月3日に日本国憲法が公布され、1947年5月3日施行されています。つまり、大日本帝国憲法から日本国憲法に変わったことで、天皇の地位は象徴となり、天皇は政治的な権力を行使できないことになっていました。

 第2に国際的には、東京裁判が終結したとはいえ、本来は第一次の被告人に続いて第二次の被告人の裁判が続くことが予定されていたのに、それが進行せず、中断していた時期です。アメリカの占領政策の変化等の理由から東京裁判は再開することなく終わりましたが、1947年9月当時、天皇の地位は国際的にはまだまだ不安定でした。そういう時期に、昭和天皇は沖縄をアメリカに差し出すことによって自分の地位を守ろうとしたことになります。

 『昭和天皇実録』によっても真相は解明されず、解釈に委ねられることになりますが、天皇、その側近、そして政府首脳たちの間で、天皇を守るために沖縄を切り捨てることで合意形成がなされていたであろうと考えられます。アメリカの意向に沿い、かつ現実に実施されている占領状態に基づいてのことでしょう。

 いずれにせよ、日本が沖縄を切り捨て、取引材料として利用したという基本部分は否定できないでしょう。沖縄を「わが国固有の領土」と考えたのではなく、分離、賃貸、分割しうる植民地と考えていたのです。

 日本はアイヌモシリ併合、琉球併合、韓国併合を通じて領土を拡張しましたが、後にそれらを分離、貸与、分割の対象としました。

 ここ十数年の日本政府が北方領土、竹島、尖閣諸島について金切声をあげて「わが国固有の領土」と叫び、領土主張を絶対に譲らないように、「わが国固有の領土」を自ら積極的に譲り渡す国家はほとんどありません。カタルーニャ独立運動に対するスペイン政府の対応を引き合いに出すまでもありません。ところが、かつて日本はアイヌモシリ、琉球、朝鮮半島を併合したり、分割したり、賃貸したり、あたかも商品のごとく扱ったのです。

 それでは分割対象であった植民地に居住する人々について、日本はどのように考えていたのでしょうか。それが「土人」以外の何者かであることは、ありえたのでしょうか。
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