2017年11月24日 1503号

【未来への責任 (237) 済州島「四・三事件」(上)】

 1995年以来、私は100回以上訪韓しているが、済州(チェジュ)島に行く機会はなかった。このほど済州島で開催された「日韓市民100人未来対話」会議に出席することになり、初めて訪問した。会議終了後に、四・三平和公園・記念館、北村(プクチョン)ノブンスンイ4・3記念館を見学、念願がかなった。

 「四・三(ササム)事件」。これは、米軍政下で発生し、大韓民国樹立、朝鮮戦争を経て1954年まで7年間にわたって済州島で続いた「事件」である。朝鮮解放後、済州島においては南北統一・自主独立国家建設をめざしいち早く人民委員会が組織され、実質的に島を統治するに至った(済州島民主主義民族戦線=民戦、南朝鮮労働党=南労党などが主導)。

 この運動を米軍政は弾圧し、他方、李承晩(イスンマン)らは米軍政と一体となって単独政府樹立を推進した。これに対し島民が1947年の三一節(独立運動記念日)で抗議行動を展開すると、米軍政―警察は発砲して弾圧(6人死亡)。これに抗議する官民ゼネストに対しても民戦幹部ら多数の人々を検挙して鎮圧した。そして、李承晩は朝鮮半島の南北分断の固定化に反対した金九(キムグ)、金奎植(キムギュシク)らを押し切り南半部のみの政権樹立に向けて単独選挙実施を打ち出した。これを阻むため、済州島の南労党は1948年4月3日に武装蜂起し、5月10日の選挙拒否を呼びかけた。多数の島民がこれに応え入山し、選挙をボイコット。済州島の3選挙区中2選挙区では選挙は無効となった。

 しかし、同年8月15日、李承晩は大韓民国政府を樹立。以降、軍兵力を済州島に投入、戒厳令を敷いて武装部隊を討伐、中山間地の村を焦土化する鎮圧作戦を展開した。武装隊と討伐隊間の武力衝突、討伐隊の鎮圧作戦により2万5千〜3万余名もの人々が犠牲となった。焦土化作戦によって家屋4万余棟が焼き払われ、130余もの村が廃墟となった。学校・行政事務所なども多数消失し、各種の事業施設も破壊された。

 「四・三事件」は韓国現代史において、朝鮮戦争に次いで甚大な犠牲を生んだ悲劇であった。この「事件」は1954年に漢拏(ハルラ)山入山禁止が解除されて終息を見た。しかし、以降も国家保安法、連座制により島民に対する監視・弾圧は続き、事件の後遺症は癒されなかった。

 「四・三事件」の真相究明と犠牲者らの名誉回復の取り組みが始まったのは1987年民主化後のこと。2000年1月、ようやく「済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」(四・三特別法)が成立した。そして、この特別法に基づき、真相調査が行われ、犠牲者・遺族認定が進み、平和公園・記念館が建設されたのだ。

 韓国では、このように過去の国家犯罪、国家暴力の真相究明、被害者救済・補償などが継続的に取り組まれている。過去事清算は「慰安婦」、徴用工問題だけではないのである。

(強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワーク 矢野秀喜)

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