2017年12月01日 1504号

【非国民がやってきた!(270) 土人の時代(21)】

 1903年の学術人類館事件で陳列されたのは、琉球人、アイヌ民族、朝鮮人、台湾人、マレー人、インド人などです。

 事件から100年後に、関西沖縄文庫の関係者たちが人類館事件を調査・研究しました。演劇「人類館」上演を実現させたい会編『人類館』において、野村浩也(広島修道大学助教授・当時)は次のように述べています。

 「人類館の起源は動物園なのだ。したがって、日本人が展示されていれば、日本人もすぐさま抗議の声をあげたことであろう。だが、あいにく日本人が展示されることはなかった。その理由は、日本人がヨーロッパ白人と同じく植民者だからであり、ヨーロッパをまねて、アイヌモシリ、琉球、台湾、朝鮮……と次々に植民地を奪い取っていたからである。そして、ヨーロッパ同様、日本の人類館に展示されたのも被植民者のみであり、展示する価値のあるのはあくまで他の動物と同じ『人間以下』の存在としての被植民者であった。人類館において日本人が見たかったものは、動物としての被植民者だけであり、被植民者も同じ人間だという当然の事実など見たくはなかったのだ。こうして、沖縄人は、日本人に征服された植民地の『特産物』として、『エキゾチックな動物』のように展示されたのである。」

 『無意識の植民地主義――日本人の米軍基地と沖縄人』において、日本人が沖縄に米軍基地を押し付けてきた心理的機制を「無意識の植民地主義」と喝破し、痛烈に批判した野村は、人類館事件という100年前の歴史の中に、より直接的で過激な植民地主義を「発見」します。

 言うまでもなく、両者は密接につながっています。近現代日本の植民地主義の総合的な分析が必須です。私たち日本人(大和民族)は、なぜ、いかにして外部に「土人」をつくりだしたのか。

 人類館事件は従来、当時の琉球新報記事をもとに論じられてきました。1903年4月7日の琉球新報社説「同胞に対する侮辱」に始まり、人類館に抗議する報道がなされました。

 同時に、よく知られるように、この抗議には一つの弱点が含まれていました。沖縄人を台湾の「生蕃」や北海道のアイヌ等とともに陳列したことへの抗議が含まれていたからです。沖縄人差別に抗議しながら、台湾の「生蕃」や北海道のアイヌを差別する論調になっていました。このことはその後の沖縄で反省すべき点として意識され、問い直されてきました。 佐渡山豊は次のように歌っています(人類館事件の歌)。

 これには誰もが呆れ返ったはずだ

 差別された者が同じ差別を受けるものを見下したのだ

 差別する側につくことでぬけぬけと生き延びようとしたんだ

 そこまで言わしめ駆り立てたものは一体何だったんだろうか

 野村浩也も被差別者による差別を受け止めて、差別を乗り越える視点を提示しようとしています。琉球新報以外の諸資料も駆使して人類館事件の歴史を詳細に明らかにした金城勇(演劇「人類館」上演を実現させたい会)は、次のように整理しています。

 「人類館をめぐる抗議では、差別された者がより『劣った他者』を見出して差別する重層的な差別の連鎖が表面化している。沖縄人はアイヌ、『生蕃』を差別し、陳列された沖縄婦人を『賎業婦』と侮辱した。陳列された婦人は『台湾の鬼と同じく数多の人に見物せられ』と『生蕃』を差別している。中国人の展示計画に抗議した中国人留学生たちは『印度と琉球は滅びた国で、イギリスと日本の奴隷に過ぎない。朝鮮は我が旧藩属であるがロシアと日本の保護国になっている。ジャワ、アイヌ、台湾の生蕃は世界の最も卑しい人種で鹿や豚に近い。中国はたとえ今国勢が衰えていても、どうしてこの六種族と同列に扱わなければならないか』と抗議している。/人類館をめぐるそれぞれの抗議の主張は、『人種』の序列を前提として、序列そのものを否定していないが故に、自らをより『上位』に位置づけ、『他者』を自らより下位に置き差別する論理となっている。」

 人種や民族の「優生学・優生思想」は19世紀から20世紀にかけて猛威を奮いました。近代世界の植民地主義、人種差別、奴隷制を支え、それらによって強化された優生学・優生思想が「土人」を生み出します。「土人」は自分より下の「土人」を探します。このメカニズムを見事に体現したのが人類館事件でした。

<参考文献>
演劇「人類館」上演を実現させたい会編『人類館』(アットワークス、2005年)
野村浩也『無意識の植民地主義――日本人の米軍基地と沖縄人』(御茶の水書房、2005年)
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