2017年12月08日 1505号

【未来への責任(238) 済州島「四・三事件」(下)】

 「四・三(ササム)事件」は朝鮮解放後に発生したが、この事件にも日本の植民地支配が影を落としていた。その一つが李承晩(イスンマン)政権が行った「焦土化作戦」である。差し向けた軍部隊は、中山間地を通行する者をすべて「暴徒」と見なして銃殺する旨の布告を出し、中山間村を「焦土化」する作戦を展開した。敵の拠点地域の住居を焼きつくし、住民を殺しつくし、食糧を奪いつくす作戦=三光作戦だ。これは、日本軍が1909年の「南韓討伐大作戦」、1920年の「間島事件」において義兵と独立軍を討伐する際に、また、南京攻略戦など中国戦線で用いた作戦であった。植民地期に旧日本軍に動員・従軍させられた韓国人が、解放後は将校として韓国警備隊に組み入れられ、この作戦を済州島(チェジュ)で展開=再演したのである。

 「四・三事件」の認定犠牲者数は1万4231人である(2014年5月現在)。うち10歳以下の子どもが770人(5・4%)、61歳以上の高齢者が901人(6・3%)なので、「赤化分子」でも「武装ゲリラ」でもあり得ない人々が無残に殺されたことになる。まさに三光作戦を髣髴(ほうふつ)させる。解放後も韓国の人々は植民地支配から自由にはなれなかった。

 2003年10月15日、「四・三事件」の真相を明らかにした「大韓民国政府の公式報告書」が確定した。そして同月31日、盧武鉉(ノムヒョン)大統領(当時)は済州道を訪問し、国家権力の過ちを認めたうえで遺族や道民に公式に謝罪した。

 ところが、私は「四・三平和記念館」に入って「白碑(ペクビ)」と名づけられた石碑が横倒しに置かれているのを見た。この碑には何も刻まれていない。何故か。それは「四・三事件」の最終評価がいまだに定まっていないからだという。“暴動”なのか“蜂起”なのか。犠牲者のうち軍・警・右翼の討伐隊による犠牲者が84・3%を占めるという調査結果から国家暴力による被害は明らかだが、済州島の人々の闘いの評価はいまだ確定せず、「事件」としか呼ばれないのである。

 来年2018年は、「四・三事件」から70周年。文在寅(ムンジェイン)政権は、「100大国政課題」の3番目に「国民の目の高さに合う過去事解決」を位置づけ、「四・三特別法」の改正、70年記念事業の実施を予定している。これにより「四・三事件」の評価が最終的に定まり、犠牲者・遺族の名誉は回復するだろうか。韓国の国家犯罪、国家暴力=過去事の清算に向けての努力は続く。

 一方で、日本は来年2018年を「明治150年」と位置づけ、「明治の精神に学び、日本の強みを再認識する」ための記念事業を実施する。「明治は偉大」「日本はスゴイ」を確認するのが目的だ。誤った国策への反省を行うことなく、「植民地支配と侵略」(1995年、村山談話)や「3・11」(2011年5月17日「原子力被災者への対応に関する当面の取組方針」)など見向きもしない。安倍に「前事不忘、後事之師」(過去と向き合い未来の教訓にする)の戒めなど馬の耳に念仏だ。

 それ故に、戦後補償運動の継続は今日的な課題でもある。

(強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワーク 矢野秀喜)

ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS