2017年12月15日 1506号

【非国民がやってきた!(271) 土人の時代(22)】

 人類館事件と言えば、1903年の大阪・天王寺の第5回内国勧業博覧会の「学術人類館事件」を指します。

 しかし、人類館はこれに限られません。長谷川由希(アイヌ資料情報室)によると、その前後に博覧会や芝居小屋において人類を展示した記録を多数確認できます。

 まず、大阪の道頓堀の芝居小屋で北海道・日高出身のアイヌが見世物にされていたのを、帯広出身の伏根弘三(アイヌ名=ホテネ)らが救出した記録があるそうです。伏根は1903年の第5回内国勧業博覧会の学術人類館で演説を行い、私設学校の経費を募金していた人物とのことです。

 1907年、東京・上野公園で開催された東京勧業博覧会に「アイヌ館」等が置かれ、人類学者の坪井正五郎が担当しました。アイヌ館の詳細は不明ですが、アイヌ衣装を着て古式舞踊を披露したそうです。ここにはアイヌ男性2名が参加したようです。

 1912年、東京・上野公園で開催された明治記念拓殖博覧会においても「台湾土人」「台湾蕃人」「樺太オタサムアイヌ」「ギリヤーク」「オロッコ」「北海道日高アイヌ」が展示されました。また、天皇などの皇族も博覧会を訪問し、人間の展示を見学しました。内務大臣、外務大臣、拓殖局総裁、公爵、伯爵らを招待して「人種懇親会」が開催されました。

 1913年、大阪・天王寺公園で開催された明治記念拓殖博覧会においても「人種小屋」が設置されました。「ギリヤーク」「オロッコ」、樺太の「馴鹿」「北海道日高アイヌ」「台湾生蕃」が参加しました。

 1914年の東京大正博覧会や1922年の平和記念東京博覧会でも台湾館、樺太館、南洋館や、「人種館」の名を見ることができます。長谷川由希は次のようにまとめています。

 「文化人類学をはじめ展示を企画する側は、学術人類館同様に植民地下にある『劣った人種』の生活様式を観覧し、彼らをどのように指導すべきかを研究するという姿勢である。用いられた展示手法は、明治記念拓殖博覧会(大阪)の『人種小屋』であり『アイヌ教育成績』の展示であった。博覧会に『生身の人間』の展示として参加をしたアイヌ民族は、北海道や樺太の原産物と同様に『改良』させ『発展』させるための対象であった。植民地主義の視点により『未開』あるいは『野蛮』とステレオタイプ化することにより、『帝国』としての日本を確認し、日本人の優位性をうみだした。そのための対象は、ステレオタイプ化された植民地下の民族自身であり、それら民族の文化であった。」

 被植民者を展示する「動物園」(野村浩也)は、学問研究の対象であり、「原産物」です。「土人」とされた人々を展示し、眺めることによって、眺める側は「文明」と「学問」に勤しむことができるのです。学問とは植民地主義であり、帝国主義そのものにほかなりません。レイシストが自己の行為を正当化するための魔術語としての「文明」や「学問」の由来がよくわかります。

 長谷川由希は「植民地を多く持つ国が強い国であり、その如何によっては日本が世界に躍進することができるという当時の政策は、博覧会を用い国民一人ひとりにその『意義』を広く知らせた。すなわち、博覧会は植民地主義を如実に反映し、国民にあるいは世界にそれを知らしめるための国家の『メディア』であった」と結論づけます。

 黒川みどり(静岡大学教授)によると、部落解放運動の大和同志会の小川幸三郎(筆名緑雲)が次のような文章を残しています。

 「午後上野に行き拓殖博覧会に入場し何等見ものなかりしが台湾土人の住家を設け其の中に親子五人昼食をなしつるを人々の打ち集いて見物せるあり嗚呼彼も 陛下の赤子なり何が故にあのさまを見物人の前にふしらしむるやまことに無智の番人の為め同情の念に堪江ざりき、此の番人につゞきてアイヌ一家族及樺太の一家族ありて物をひさげるを見たり樺太土人の女は内地婦人に豪も異ならず」(緑雲生「上京日記」、第三号、一九一二年一二月)

<参考文献>
黒川みどり『創られた「人種」――部落差別と人種主義』(有志舎、2016年)
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