2018年02月02日 1512号

【非国民がやってきた!(274) 土人の時代(25)】

 2017年7月22〜23日、札幌市で「遺骨をコタンに返せ!4大学合同全国集会」が開かれました。4大学とは北海道大学、東京大学、京都大学、大阪大学です。集会実行委員会の共同代表は、河村シンリツ・エオリパック・アイヌ(旭川アイヌ協議会)、片岡とも子(「京大・追及する会」「阪大・究明する会」代表、ピリカ全国実行委員会)です。

 呼びかけ団体は、旭川アイヌ協議会、「原住、アイヌ民族の権利をとり戻すウコチャランケの会」「アイヌ民族の遺骨を取り戻す有珠の会」「『北方領土の日』反対!『アイヌ新法』実現!全国実行委員会:ピリカ全国実行委員会」「北大人骨問題の真相を究明する会」「東大のアイヌ民族遺骨を返還させる会」「京大・アイヌ民族遺骨問題の真相を究明し責任を追及する会」「阪大・人骨問題の真相を究明する会」「アイヌ民族と連帯するウルマの会」です。

 集会呼びかけは「北大、東大、京大、阪大などの『アイヌ研究』、『琉球研究』は民族差別、人権侵害そのものであり、『優勝劣敗』の社会進化論、優生思想をベースにした民族抹殺、日本社会への同化を強力に推進してきました。さらに日本人類学は、アイヌモシリ、琉球、台湾、朝鮮、中国、アジア・太平洋地域へと侵略・植民地支配に加担する国策の『帝国学問』の役割を果たしてきました」と述べます。

 三木ひかる(ピリカ全国実行委員会)によると、第1次大戦後、「白色人種」に対して「黄色人種」が「人種的優位」に立つために「人種改良」論が流行しました。社会進化論から派生した優生思想が遺伝学と合流し、人種改良のために「民族衛生政策」が採用されました。「精神障害者」「身体障害者」「アルコール依存症」「犯罪者」「反社会的分子」を排除することによって優秀な「血統」を残すという思想です。1930年代にはナチス・ドイツのもと、「優生・人種学革命」「ドイツ民族の生物学的質の向上と良質人口増殖」が図られ、ユダヤ民族やロマ(シンティ、ジプシー)への虐殺に至りました。1933年、日本学術振興会第8委員会は日本民族衛生学会と合同して「アイヌの医学的民族生物学的調査研究」に着手しました。アイヌ民族を「滅びゆく民族」と決めつけ、その原因を探るためにアイヌ民族の頭骨の形状、毛髪、皮膚、血液型、指紋などを調査したのです。三木は次のように述べます。

 「当時、アイヌ民族はいわゆる『混血』による同化によって『滅亡』するとする、優生学的生物学主義的同化主義がさかんに喧伝され、アイヌ民族『衰亡』を、疑似『科学的』に証明するために人権破壊の差別調査がおこなわれ、その調査にもとづく数多くの読むに堪えない差別論文が書き散らされました。」

 「アイヌ民族を『原始的』、『特異な体質』をもつ『古代民族』などとするとらえ方は、児玉(作左衛門)ら人類学者の先住民族観の典型であり、アイヌ民族を『化石』のような存在と見、同時代を共に生きる民族とは決して認めません。」

 アイヌ墓地の組織的で大規模な破壊、盗掘、遺骨の持ち出しは、警察や自治体の協力を得て、アイヌ民族の抗議を押し切って実施されました。

 さらに三木は、天皇裕仁(昭和天皇)の北大視察の意味を鋭く指摘します。天皇裕仁は2度にわたって北大を視察しました。

 1度目は1936年10月、陸軍特別大演習が挙行された際に北海道を訪れた時のことです。9月28日、大本営には「研究業績」が陳列され、児玉作左衛門が天皇に「アイヌの頭蓋骨の研究」という講義を行いました。優生思想に立脚した民族生物学が大日本帝国の大元帥である天皇と直結した瞬間です。

 2度目は1954年で、やはり児玉が医学部標本庫で「収蔵資料」の説明を行いました。

 1958年7月には皇太子明仁(現天皇)も北大を訪問して、児玉から説明を受けました。皇太子は記者会見で「[アイヌは]意外に[色が]黒かった、白色人種の系統だからもっと白いと思っていたんですが。ギリヤーク[ニブヒ]、オロチョン[ウィルタ]となると日本人とは区別がつきません」と述べたと言います(北海道新聞1958年7月7日)。

 アイヌを白色人種としているのは、当時の児玉の持論を真に受けたものです。

 大日本帝国時代も、現在の日本国憲法体制になってからも、天皇及び皇太子が、北大におけるアイヌ民族の盗掘の成果を「学問」として謹聴し、差別思想の正当化に大きな役割を果たしたのです。

<参考文献>
『アイヌ民族の遺骨は告発する――コタンの破壊と植民地支配』(遺骨をコタンに返せ!4大学合同全国集会実行委員会、2017年)
ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS