2018年03月14日 1518号

【非国民がやってきた!(277) 土人の時代(28)】

 京都大学が保管している琉球民族の遺骨について、琉球民族遺骨返還研究会代表の松島泰勝(龍谷大学教授)及び琉球新報は精力的に調査してきました。

 琉球新報社の宮城隆尋によると、金関丈夫(京都帝国大学助教授)の著書『琉球民俗誌』(1978年)には、沖縄における人骨収集の経緯が記録されています。

 金関は1929年1月9日に県庁警察部の許可を得て、1月11日、百按司(むむじゃな)墓を訪ねました。名護小学校長の島袋源一郎、仲宗根村駐在所の巡査を同行して「頭蓋15個、頭蓋破片10数個、躯幹四肢骨多数を得た」といいます。翌12日は、ビール箱で12箱分の骨を運び出し「採集し尽くした」と書いています。

 同墓の人骨の埋葬時期は「弘治以前より万暦の頃、並びに明治以後最近に至るまでの人骨が、共存するものと見なければならない」とあります。弘治は中国明代の1488〜1505年を意味しています。明治以後の新しいものが含まれると知りながら、人骨を持ち去ったことに注意してください。

 中城城跡近くでは、岩陰で見つけた「道光三、十一月、父比嘉」と墨書きされたかめから「女性骨と小児骨」を収集しました。中城城跡の洞窟に散乱していた人骨も「悉く収集して、大風呂敷包数個を得る」とあります。

 人骨はのちに金関の師である清野謙次の著書『古代人骨の研究に基づく日本人種論』(1949年)では、沖縄本島から収集された人骨71例、奄美諸島の241例の計312例が挙げられています。それらは全て京都大学に寄贈されたとされています。

 金関や清野の著書には、沖縄の研究者の紹介を受け、県や那覇市の許可を得て収集したことが書かれていますが、遺族の意向に関する記述は見当たりません。祭祀継承者や地元の共同体である門中の了解を得て実施されたかどうか確認できません。

 沖縄と本土(ヤマト)では、葬送の歴史や文化に異なる点が多々あります。近代以降に火葬が定着するまで、沖縄では風葬が行われていました。崖に約60基の古墓が点在する今帰仁村運天のように、自然壕などを利用した風葬墓は現在も県内各地に残っています。金関の『琉球民俗誌』には遺族の意向に関する記述がないのは、「無縁の骨」として扱っていたのかもしれません。しかし風葬墓であっても、すぐに「無縁」と見ることができるわけではありません。

 沖縄における墓の所有形態には、門中墓、兄弟墓、家族墓などの血縁関係だけでなく、村落共同体で共有する村墓、知り合いで営む模合墓などがあります。血縁以外にも誰かの祖先である可能性は広く残されています。金関が遺骨を持ち出した百按司墓は、16世紀以前の沖縄本島北部地域の有力按司やその一族の墓と考えられていますが、墓を持たない地域の人々も骨を持ち込んでいましたし、近世まで利用していたことも考えられます。

 北大の研究者たちが、アイヌ民族の墓地から盗掘した骨について個人識別できないようにしてしまい、今になって、祭祀継承者に返還するが、祭祀継承者が不明だから返還しないという態度をとってきたように、京大も、誰の骨かわからないから返還しないと言うのでしょうか。

 2016年3月、アイヌ遺骨返還訴訟において和解が成立し、民法に規定される血縁関係にかかわらず、コタン(集落)で墓地を営んだアイヌ民族の慣習を尊重し、地域に遺骨を返すことで合意しました。2016年7月、遺骨の一部が返還され、再埋葬が実現しました。百按司墓も地域で利用されていたのであれば、アイヌ墓地と共通の性質を備えていたことになります。京大も沖縄の自治体や門中と協議して返還する方策を見いだすべきでしょう。

 宮城隆尋は次のように述べています。

 「琉球の人々が先住民族であることは国連人権委員会が2008年に認め、国連人種差別撤廃委員会も日本政府に対して権利保護を勧告している。しかし日本政府は、国内の先住民族はアイヌ民族以外に存在しないという立場だ。遺骨の収奪は琉球の人々の人権を侵害する行為であり、遺骨を返還していない現在の京都大学などの対応は琉球の人々の先住民族としての権利を侵害する行為だ。琉球併合(琉球処分)や沖縄戦、戦後の米国統治、現在の在沖米軍基地問題などにより、国家によって琉球人の自己決定権が侵害されてきたことと地続きの問題だ。全国各地の旧帝国大学に保管されているとみられる琉球人遺骨の全容が明らかにされ、その全てが返還されるまで、琉球の人々の人権が侵害された状態は続く。日本政府や旧帝国大学の関係者はこの問題に正面から向き合い、応える必要がある。」

<参考文献>
宮城隆尋「奪われた琉球人遺骨」木村朗・前田朗編『ヘイト・クライムと植民地主義』(三一書房、2018年)
ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS