2018年05月04日・11日 1525号
【新・哲学世間話(3)田端信広 官僚とアイヒマンの言葉】
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連日、テレビで官僚の醜態を見せつけられて、だれもがうんざりしている。正義感の強い人は「官僚には、最低限のモラルさえないのか」と怒っている。
だが、それは私から言わせると、ややお門(かど)違いの怒りとも言える。官僚という存在にはモラル、すなわち自分の良心に訴えかける誠実さなど、初めから必要のないものである。そんなものは、官僚としての任務を果たすうえで妨げにしかならない。
官僚は事の「善悪」を、「正・不正」を、自らで判断しない。というより、してはならない。ただ「上から」の指令を、もっともスムーズに、最も効率よく実施できるような「手続き」を考え、それを「合理的に」配置することこそ、官僚の本務なのである。なすべき「目的」の是非を度外視して、目的遂行のための「手続き」、「手段」を完璧にそろえるのが、官僚の腕の見せ所なのである。
これは「目的合理性」と呼ばれている。その本質は、目指されている「目的」が不正なことであろうが、「犯罪」的であろうが、とにかくその「目的」を実現できる手続きを、もっともらしい理屈をたててあんばいすることにある。連日テレビで醜態をさらしている連中は、この「目的合理性」の権化(ごんげ)のような連中なのである。
彼らは、今でも本当はこう思っているはずである。「なぜ、俺だけがこんなにたたかれねばならないのか。俺は官僚の本務に忠実に、言われた通りに、もっとも合理的な手続きを考え、手を打っただけだ」
世界史上、そうした「目的合理性」の自己弁護が、あぜんとするほど「見事に」表明されたのが、「アイヒマン裁判」であろう。アイヒマンはナチスによるユダヤ民族虐殺の実行責任者であった。彼は、ヨーロッパ中のユダヤ人を収容所に集めるために、きわめて緻密な計画を立て、それを完璧に実行に移した。ユダヤ人輸送のための大規模な列車運行計画まで立てた。
その彼が逮捕され、エルサレムで裁判にかけられたとき、彼は公然とこう言い放ったのである。「私になんの責任も、罪もない。私は命令に従っただけだ」。その際、彼は「だれもが、どこでもそうしているではないか」とも付け加えている。
この最後のことばだけは、一考に値する。たしかに、どこの社会にも、どんな組織にも、事に密接にかかわりながら、それが失敗に終わると、「それは、私のせいではない」、「上から」あるいは「他所(よそ)から」言われたからやっただけだ、と言う人がいる。彼もまた、自分の責任を放棄して、「目的合理性」の病にかかっていることの自己弁護をしていると言えるだろう。
われわれもまた、自らのうちなるこのプチ官僚的精神を時には凝視してみる必要があろう。
(筆者は大学教員) |
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